【CDレビュー】何故こんなにも甘く、瑞々しい?Base Ball Bear 新作EP「Grape」を紐解く!

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9月4日にBase Ball Bearの新作EP「Grape」がデジタルリリースされた。

バンドメンバーが自ら「バンド楽しー!状態」と語るBase Ball Bearの現在のモードが、濃密な果実のように詰め込まれた本作。本記事では、そんな「Grape」の魅力を紐解いていく。

「いまは僕の目を見て」

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本作のリードトラック。

ギターロックらしい瑞々しいサウンドに乗る歌詞のテーマは「コミュニケーション」。

言葉は穴の開いた 軽い砂袋さ

君まで届ける前に かなりこぼれてしまう

人と人との関わりというものは簡単なモノではない。自分が思っていることの100%が伝わる事なんてまず在り得ないだろう。自分の持つ語彙、想いを伝える媒体、相手の持つ語彙によって、半分だとか、10%だとか、その程度の量しか伝えることが出来ない。

君を美しいと感じた そのときにそのまま伝えたら

なんて思われるだろう 臆病になってしまう

相手に「想い」を伝えることは、何かを変えることに他ならない。相手の感情から自分と相手との関係性に至るまで、「自分の想いを伝える」たったそれだけのことで、様々な事が様々な形で変化する。「変化」に臆病になるのは人として当然のことだろう。

心と心つなぐ ケーブルがあるなら

この悩みはなくなって ただ、歓びも失せてく

自分の「想い」を2進数に置き換えて、相手と共有可能な拡張子を付けて、そうやってパソコンや携帯電話のようにケーブルを介して「データ」として送り合うことが出来たら、一体どんなに楽だろう、どんなに便利なのだろう。人間関係に悩む人なら誰しもコミュニケーションが簡単になったらと思ったことがある筈だ。それでも、変化を覚悟した上で、伝わりにくいこと・伝え辛いことが伝わるからこそ、人間は人と繋がること、コミュニケーションを取る事に歓びを感じるのだ。

足元に 砂だまり

ほとんどをこぼしながらも

大切な 残りもの

どうかせめて 本当を感じて

全てが伝わらなくても、過去も知らなくても良いから、せめて僕の本当に伝えたい言葉に出来ないこの気持ちを感じてほしいと願う「僕」に、自分を重ね合わせてしまう人も沢山いることだろう。

これまで生きてきたこと

僕を形作ってきたことも

わからなくたっていいから

いまは僕の目を見て

「言葉」という人の人智と、それを超えた先にある「気持ち」。喩えられない思いは、目や仕草や行動に宿る。

きっと君にあげたいものは 喩えられるようなものじゃない

胸の奥で渦巻いた ありったけの気持ちをすべて

喩えられないような想いだからこその「いまは僕の目を見て」。

「恋愛関係」において、コミュニケーションの壁は大きく立ち塞がる。むしろ全てのラヴソングは全て「コミュニケーション」に帰結するとすら言える。その一方で、コミュニケーションを主軸にしたラヴソングなんてものは(少なくとも僕は)今まで聞いたことが無かったし、そんな視座で音楽を組み立ててしまう小出祐介を僕は恐ろしく感じた。

とはいえ「コミュニケーション」という、ある種堅苦しいテーマが据えられた一方で、この「いまは僕の目を見て」はどこまでも瑞々しい。

フリーハンドで 飛行機雲が 秋空を割ってく

横を見れば 見上げた君が

感心して「ほほう」なんて言ってる

台詞によって主観である「僕」以外の視点を加えることで写実的な表現を生み出すのは「不思議な夜」「すべては君のせいで」あたりのアップデート。秋空の下、青空を見上げて顔をほころばすふたりの(付き合うか付き合わないかくらいの)男女の姿が、頭の中に自然と思い浮かぶ。勿論これは僕の捉え方で、友人関係の男女にも、同性同士の恋人にもこの歌詞は当てはめることが出来るし、そこがこの曲の魅力でもある。この一節によって、一層この歌詞をリアリティを持って感じることが出来るし、重ね合わせることが出来るようになる。

Aメロ、Bメロはギターがそこまで鳴っていないことに対し、サビではロックの神髄のようなジャカジャカと掻き鳴らされるギターサウンドが展開される。前作「ポラリス」の完全スリーピース編成としてのサウンドメイク方法論、特に「PARK」で顕著だった「ギターの音を減らし、ドラムベースの手数を増やすことで間を感じさせない」サウンドと、スリーピース以前のベボベのパブリックイメージである「王道ギターロックバンド」のハイブリットのような出で立ちは、またBase Ball Bearが新たなフェーズに突入したことを感じると同時に、瑞々しさを強く感じる理由にもなっている。また、一貫して切ない響きを持つ小出祐介の歌声と歌メロも、この曲の推進力と言えるだろう。

コミュニケーションの難しさ、それを超えた時の歓び、人間の気持ちの機微を柔らかく描いたこの曲は、新しいBase Ball Bearの代表曲になることだろう。

「セプテンバー・ステップス」

「9月の失恋」がテーマの「セプテンバー・ステップス」。「9月」をタイトルに据えながら、9月というワードを意図的に使わないのは「直接的なワードや表現を使わずに如何にそのテーマを描き切るのか」という小出祐介のこだわりであり、作家としての矜持を感じる。

ベイサイド どしゃぶりの

二人占めの夜の匂いに

指置いた 拾ったライター

点いてしまった 赤色 手持ち花火

初夏、梅雨時の恋の始まり。花火と共に火が点いた二人の恋路。

ああ Greenに光る都会

僕の中にもこんな一面があると知った

恋愛を通して自分の知らなかった一面を知る瞬間。これも「コミュニケーション」の魅力の1つだろう。

永遠 遠 遠の7・8月

元気でも どこか かなしい

そして、熱いのにどこか悲しげな、9月の別れを察知している夏。

すぐやってってっ来る10・11月

青空が爽やかさみしい

永遠と思っていたふたりの夏、そして失恋を経て、前に進まなきゃいけない未来としての10、11月。「セプテンバー・ステップス」はそんな「暑かった夏」を、1曲を通して描いている。

「タッタッタッ...」や「永遠 遠 遠」という言葉遊びによってキャッチーさを増すサビは一度聞いただけで頭から離れなくなりそうな程だ。

作曲にドラムス・堀之内がクレジットされていることもあり、Bメロやサビのドラムパターンは今までになかったタイプのそれで、癖になる。「ポラリス」において「試される」「PARK」が関根史織のベースから曲を膨らませたように、小出以外のメンバーが作曲に携わる事で楽曲に今までにない科学反応が生まれている。Aメロのギターカッティングは小出祐介の十八番だが、近年の楽曲にはあまり大きく出てこなかったこともあり、久しぶりに小気味良い切れ味の「小出カッティング」を楽しむことが出来る。

「Summer Melt」

こちらも「失恋」を描いた1作。タイトルの「Summer Melt」の「Melt」は「溶ける」の意。失恋を「氷の溶ける様」と重ね合わせつつも、言葉数を意図的に減らして表現する。「セプテンバー・ステップス」が夏の終わりに失せてく恋を歌ったのならば、「Summer Melt」は「夏中ずっと失恋から立ち直れない僕」を描き切る。こちらも小出祐介の作家性が存分に発揮された1曲。

君に教えてもらったことだって

僕の知識として育っていく

君もそうかなってチクっとする

この曲の個人的ハイライトはこの一節。誰に何を教えて貰ったか、は知識の内容とは直接関係が無く、故にどんな人に教わったモノだろうと公平に「己の知識」として消費される。それは意識しないと感じえない感覚だが、それに気付いた「僕」は、僕の教えた事が相手の知識になっていくことを考え、その感覚に言葉にならない感情を抱く。知識の共有、これも「コミュニケーション」のひとつであり、人と人との繋がりの証だ。

さよならも上手に出来なくて

最初から違ったと思いたい

幸せだった瞬間(とき)があふれる

恋の終わりに納得がいかない「僕」は、その恋における「幸せだった時間」すらも「違った」と否定しようとするのだが、そう思えば思う程「幸せだった瞬間」が溢れてしまう。

そして、氷は溶け続ける

恋という氷は、夏の熱に溶けていく。

忘れなきゃいけないとわかってる

「カラン」と音が響いた 秋の始まり

秋の始まりと共に、次の一歩を「僕」は踏み出す。

じんわりと、まさに氷が溶けるようなサウンドメイクが印象的。「光源」に収録された「寛解」にも雰囲気が似ているが、「寛解」だってサビではちゃんと一段上がるような盛りあがりがあったと思う。一方で「Summer Melt」はグッと盛り上がることなく終わっていく。サビらしいサビも無い。A、B、サビという構造ではなく、演奏で1曲聞かせ切るこの構成は、17年間彼らがバンドを続けてきた賜物だ。

「Grape Juice」

このEPの中では異彩を放つロックンロール・ナンバー。「意味の無い名曲」を目指した、とVo.小出は自身のInstagramストーリーで語っていた。それを踏まえて僕なりの解釈を書き記す。

没入して踊る

点滅が暴れる

不自由な自由に溺れる

この一節はギターロックとライブハウスの比喩だろう。没入して踊るのはオーディエンス。暴れる点滅はライブハウスにおける照明。不自由な自由というのはギター、ベース、ドラムという編成から逃れられないギターロックという音楽ジャンルの不自由さと、それ以外はなんだって出来る、そして実際になんだってしているBase Ball Bearならではの視点だ。

スリーポイントを決める

記憶・理想がこびりつく

頭の向こう岸で 誰かが僕を見張る

これは小出祐介が自身の中学時代から未だ逃れられていないことの暗喩。バスケットボールにのめり込んでいた彼は、同級生からのイジメによってバスケットボールから離れる事となるのだが、この一節で歌われているのは「その当時の自身との対峙」。記憶・理想とはそのまま当時の記憶や理想が未だに自分自身の頭から離れないことを示す。頭の向こう岸で僕を見張っている誰か、とは紛れもない僕(=小出)自身。

爆音で音楽浴びさせて

爆音でロックンロールさせて

「バンド楽しー!!」状態の彼らの今のモード、そしてそんな彼らをライブで追う僕たちオーディエンスの感情そのまま。

でかいギター ひくいベース はやいドラム

まさに、今のBase Ball Bearの在り方そのものを示す歌詞。

意味が無いその中に、意味のない圧倒的見つける

前作「ポラリス」に収録された表題曲「ポラリス」は、「3」をテーマに「3」に纏わる単語、言葉が散りばめられた歌詞になっている。

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 それは一見すると意味が無いようで、「3人のBase Ball Bear」を表現し切る、「圧倒的な何か」に満ちたモノだった。

意味が無いその中に、意味のない圧倒的見つける

今までずっと徹底して「意味」と戦い、「意味」を見出してきた小出祐介の描く「意味の無い圧倒的」はまさしく彼の新機軸。この曲はその狼煙となるだろう。

「セプテンバー・ステップス」に引き続き、作曲に堀之内大介の名がクレジットされた「Grape Juice」。ドラムの手数、そして構造は複雑に組み立てられていて、分かりやすくドラム先行・中心に作られたことが分かる構成だ。特にアウトロの妙に長く続くタムの音は、いい意味の違和感を創り出し、アクセントの役割を担っている。リズム隊が作曲に携わるという、新しいBase Ball Bearの制作スタイルの本領が発揮された1曲だ。

何故、Base Ball Bearは今「檸檬」ではなく「Grape(葡萄)」を選んだのか?

Base Ball Bearはデビュー時から長い間「檸檬」というモチーフを使い続けてきた。彼らにとって「檸檬」という、その言葉でしか表現し得ることができない感覚は、一方では呪いのように、その一方ではお呪い(おまじない)のように、彼らの活動の至る場面で登場してきた。

今回Base Ball Bearは「檸檬」ではなく「Grape」、つまり「葡萄」を選んだ。何故彼らは「Grape」を今回モチーフに選んだのだろう。

檸檬」は「甘酸っぱい」とされる果実だ。その甘酸っぱさ故に「檸檬のような~」とBase Ball Bearだけでなく様々な場面で形容される。

しかし、冷静に檸檬の味を思い出せば、檸檬は「甘酸っぱい」の「酸っぱい」が強い果実ではないだろうか。強烈な酸味、そしてその酸味の奥に眠る仄かな甘さ。それこそが「檸檬」だ。

一方で「葡萄」はどうだろう。檸檬と同様「甘酸っぱい」果実だが、その「甘」さと「酸っぱ」さは全く逆ではないか。強い甘さの中に仄かな酸味。そして果汁が溢れるような瑞々しさ。これが葡萄の特徴だ。

本作「Grape」は前作と比べて、というよりはこれまでのBase Ball Bear史実を振り返っても収録曲におけるラヴソングの割合がかなり高いように感じる。愛や恋を通して表現したいものがある。そんな小出祐介の想いを感じる構成だ。

そして「Grape」のもう一つの特徴は、今までになくフレッシュで瑞々しいサウンドだ。何故こんなにも瑞々しいサウンドが鳴っているのだろう。それはきっと完全スリーピース編成での新しい制作・演奏も板についてきて、より新鮮な、よりロックバンドらしくもありながら新鮮なサウンドを模索した彼らの「バンド楽しー!!」な感覚がそのまま音に濃縮して詰め込まれているからだろう。

そんなジューシーでスウィーテイーなBase Ball Bearのモードに似合うのは「檸檬」ではなく「Grape」だ。

檸檬」には無い「葡萄」ならではの「甘さ」と「酸っぱさ」のバランス、そして「瑞々しさ」。これらが今のBase Ball Bearのモードと見事に合致して生まれたニューEP「Grape」。ライブ会場ではCD+DVDのフィジカルでの販売も予定されている。いつになく甘く、そして瑞々しい。そんなBase Ball Bearという果実を、溢れる程頬張ろう。

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