6月9日だからロックについてのおはなし

今日は6月9日。内田恭子とジョニーデップの誕生日だとか日本が初めてワールドカップで初勝利した日だとか。

 

日本では語呂合わせで「ロックの日」とするらしい。

 

「チマチマと音楽レビューなんぞをしてる当サイトにとってもこれに触れない訳にはいかねぇ!ぶちかましてやるぜ!!」なんて思ったりしたのだけども

 

よく考えたらロックってなんだよ…?

 

古今東西世界各国「ロック」という概念が生まれた瞬間から現在に至るまで、すべてのロックスター達がぶち当たってきた難問に、こんな小さな小さなブログも当たってしまったわけです。さぁ困った。勝手にぶち当たって勝手に困ってるだけだ。当たり屋かよ。

 

とりあえずwikipedia見てみよう。

 

音楽ジャンルとしてのロック、ないし、ロック・ミュージック、ロック音楽(ロックおんがく、英語: rock music)は、1950年代にアメリカ合衆国におけるロックンロールを起源とし、1960年代以降、特にイギリスやアメリカ合衆国で、幅広く多様な様式へと展開したポピュラー音楽のジャンルである

ピンとこない。

 ロックは、通常はエレクトリックベースやドラムスとともにロック・グループを構成している、エレクトリック・ギターを中心とした音楽である。典型的には、ロックは歌のある曲で、通常は4分の4拍子でヴァース‐コーラス形式をとるが、このジャンルは極端に多様化しているため、共通した音楽的特徴を定義づけることは困難である。

 まだピンとこない。

 ポップ・ミュージックのように、歌詞は恋愛に重きを置いた内容になることが多いが、これについても幅広く多様な他の主題が取り上げられることがあり、社会的ないし政治的な側面が強調されることもしばしばある。ロックの領域における白人男性ミュージシャンの優越は、ロック音楽が追究する主題を形作る重要な要素のひとつであると考えられている。ロックにおいて特に強調される要素は、ミュージシャンシップ(音楽家としての自意識ないし技量)、ライブ演奏や、ポップ・ミュージックより優った本物の音楽であることを主張するイデオロギーである。
ロック音楽は、文化な意志社会的運動が埋め込まれ、また、そうした運動の伝達手段となって、イギリスにおけるモッズやロッカーズ、1960年代のアメリカ合衆国においてサンフランシスコから広まったヒッピーのカウンターカルチャーのように、主要なサブカルチャーの形成に繋がっていくこともある。同様に、1970年代のパンク・カルチャーは、視覚的にも明確な様式であるゴスやエモなど多数を生み出した。フォークからプロテストソングの伝統を受け継いだロック音楽は、政治的な積極行動主義と結びつき、人種、性、薬物に対する社会的姿勢を変え、社会への従順に対する、若者たちの逆らいの表現と見られている。

 長いし何言ってるかわかんねぇ!

 

「ロックは反体制」「ロックは政治的な行動主義へと結びついている」と聞いてしまえば何となく納得しそうになる。だが、例えば今現在、日本の所謂「邦ロック」業界で「反体制」を地で行ってるバンドがどれだけいるだろうか。もっと言えば日本の音楽業界そのものも「反体制」からは程遠い印象だ。[Alexandros]もKANA-BOONONE OK ROCKRADWIMPSもみんな政治的な印象は全く受けない。それどころか浜崎あゆみ宇多田ヒカル西野カナもみんなみんな「反体制」なんかしちゃいない。別にそういうバンドがいないわけではない。後藤正文率いるASIAN KUNG-HU GENERATION、サンボマスターなんかもそっち側なイメージだ。「ずっとウソだった」が話題になった斉藤和義Ken Yokoyamaなんかもそうだろう。比較的初期から社会風刺ソングを歌い続けているサザンオールスターズ。上記したバンドやミュージシャンも僕が知らないだけで実はそういう曲を作っているかもしれない。

でもそれらが「メインストーム」なわけではない。つまり、彼らの活動の主軸は「反体制」「政治的な行動主義」では決してないし、また「反体制」「政治的な行動主義」がウケて音楽活動をしているわけではないのだ。[Alexandros]はオシャレなルックスとカッコいいサウンドがウケているし、KANA-BOONはダンスナブルな4つ打ちサウンドがウケてる。上記した他のバンドやミュージシャンもそうだ。「反体制」「社会風刺」そのもの"だけが"ウケている訳じゃなくて、あくまで付加価値としての「反体制」「社会風刺」だろう。その割合はミュージシャンによって様々だが。

でもそれじゃあ真の意味で「ロック」なミュージシャンなんているのだろうか。

そもそも論だが、「ロックとは反体制」という概念そのものがもう過去のものなのだろう。「反体制」とは社会的な、政治的ならな体制への対抗、というような意味合いだが、その基盤そのものが過去のものというか。現代における「反体制」は寧ろ、「音楽業界という巨大体制に対してのカウンター」としての「反体制」、政治的ではなく、むしろ「生活圏の中に存在する巨大体制に対してのカウンター」という、要は「ミュージシャンが生活する中で非常に近い存在である巨大体制」へ反対し、変革を起こそうとする姿勢に変わってきているのではないだろうか。前者なら最近話題になった岡崎体育の「MUSIC VIDEO」での「音楽PV業界に喧嘩を売りまくる」姿勢や打首獄門同好会の「普通のバンドなら歌詞にしないようなテーマを敢えて歌詞にする」姿勢、後者ならキュウソネコカミ、ヤバいTシャツ屋さんなどの「半径3m圏内に存在するモノへ噛みつく」様があげられる気がする。

 



つまり、「対象が変化している」のだ。日本人の国民性だとどうしても政治的なメッセージは敬遠されがちだ。そうではなくて「もっと身近な巨大体制への反抗」、としての「反体制」が昨今では大いにウケているように感じる。

 

結局、「ロックってなんだよ」論の最終的な結論は出ず仕舞いだ。当然だ。簡単に結論出せたらこんなにみんな苦労しねぇんだっつうんだよ。ただ一つ思うことは、「日本人に合ったロック」観が2016年にしてやっと固まってきたのではないだろうか。新しい形の「ロック」が出来上がっていくことは、音楽のエクストリーム化が進む昨今において正しい姿だろう。いちロックファンとして今後も新しいロックの出現に期待したい。

 

6月9日、調べたらRock'in on Japanの代表取締役である渋谷陽一の誕生日でもあるらしい。生まれた瞬間からロックだったのだ。本当の意味で1番ロックに近い存在は渋谷陽一なのかもしれない。

【CDレビュー】「呪い(のろい)」と「呪い(まじない)」【Base Ball Bear「二十九歳」】

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Base Ball Bear「二十九歳」。Base Ball Bear史上1番のボリューム、そしてBase Ball Bearがデビュー当時から歌い続けてきたテーマを1度総括するかのような作品だ。
Base Ball Bearの活動コンセプトとして「普通って何?」という裏テーマのようなものがあった。生きていく上で絶対に避けられない「普通」。いつだって人間は「普通」にまとわりつき、まとわりつかれながら生きている。酷く鬱屈で、その癖愛おしい。そんな恋人のような普通。気にしないだけで、いつもすぐ傍にある普通。「普通=平凡・退屈」ではなくて、「極端さの間の揺らぎ」。そんな普通について、1度総括するかのように歌ったのがこの「二十九歳」という作品だ。
 
①何才

「空き箱を開けて閉めて 何もないってわかってるけどまだ知りたい 知りたいよ」「ゴミ箱を漁りなおして 何もないって分かってるけどまだ知りたい知りたいよ」

natalie.mu

 そう。だから僕がやりたいことって「ギターロックってこういうことだよね」という幅を広げることにあって。一般的なギターロックのイメージって、8ビートで疾走感のあるサウンドみたいなところから始まっていると思うんですけど、それを拡張していくというか。「ギターロックってどこまでギターロックって言えるんだろう?」っていう。

 既に音楽業界の共通認識としてある「ギターロック」というジャンルはやり尽くされていて、彼らは「ギターロック」というジャンルを活動を通して押し広げている。今では主流となった「4つ打ちダンスロック」はBase Ball Bearが祖のひとりだろう。デビューした瞬間から彼らは「ギターロック」というジャンルを押し広げていたのだ。デビューから8年もの歳月を経て、改めて彼らは「ギターロック」というジャンルを押し広げようとしている。何故それほどまでにギターロックに固執するのか。それは彼らがギターロックを愛しているからだろう。だからこそこのジャンルをより面白くしようとしているのだ。歌詞に出てくる「空き箱」「ゴミ箱」はギターロックというジャンルそのもの。何もない、けれどまだ何かあると信じて疑っていないのだ。

「淀みからメロンソーダまで翔け抜けたい 理屈じゃない」

「淀み」と「メロンソーダ」は相反する極端なものの表れ。その両極端を追いたいけれど、願望で留まってしまっている辺りに僕は共感してしまう。「極端さ」を追えないから僕たちは「普通」で在り続けてしまう。「間」で居続けてしまう。

「欲しいのは全てと言ったらいけないのかな」

本当は何もかもが欲しいけど、叶わない。「何もかも欲しい」とか言っちゃう自分が「普通」過ぎて嫌だ。でも言いたい。そんなアンビバレンスな感情を抱えて次曲へと向かう。

アンビバレントダンサー


Base Ball Bear - アンビバレントダンサー

「なんてアンビバレンス どちらとも言えず」

「"嘘だけどTruth 本当だけどFalsehood"」

「"嫌いだけどMiss you 好きだけどHate you"」

「交代で来る絶望と希望だ」

「"大体すべてTruth 大体すべてFalsehood"」

まさにアンビバレント。まさに相反する感情。矛盾のようで、でもこれこそが普通。どんな人でも1度は感じてしまう感情。好きだから嫌いになって、嫌いだから好きになる。3分前まで自分の中に満ち満ちていた希望が、なんの脈絡も無く一瞬で絶望に変わる瞬間。結局全て真実で結局全て嘘。これぞ「両極端の間」。

ファンファーレがきこえる(Album mix)

16thシングル。

「いつものように目の前に線を引いてみりゃ大体が そりゃあ、気持ち悪いことばっかりなんだよ」

「いつものように目の前に床ばかり見てりゃ毎日が そりゃあ、気持ち悪すぎる程 地獄なんだよ」

繰り返す毎日、日常への不満。

「思い切ってちゃぶ台をひっくり返せりゃいいけど そんなことも自分に赦せやしないんだ」

「人に告げず 遠くの町に逃げたくもなるけど 守らなきゃいけないものも、締め切りも、契約もある」

このつまらない日々にピリオドを打つためのアクションを起こしたいけれど、結局縛られた鎖でそれすら出来ない。

「屋上で寝ころんで夢を語った僕らは 貯金と精神(ハート)切り崩しながら もがいてる」

「六畳で寝ころんで夢にうなされる現在(いま)も 悔しいほど信じ続けてる いつか...」

あの頃描いた夢を今でも諦めきれないから、もがき苦しんでいる。

「アニメ化希望!のリアルタイムと ドラマ化希望!のストーリー持って 自分の人生(せかい)の主役になりたい 映画化希望!の絶体絶命 大爆死でも大逆転でも 答えを出さなきゃいけないんだ」

僕たちはこの広い世界の主役には到底なれないけど、自分の人生の主役は絶対に自分。たとえどんな結果になろうと、自分のストーリーの答えは自分で出せよ!と自分を鼓舞するように言い聞かせている。

「僕らには輝く権利がある 明日がある」

④Ghost Town


Base Ball Bear 「Ghost Town」

インタヴュー | Base Ball Bear

同調圧力」について歌われた曲だと僕は解釈してる。僕が住んでるような田舎街は、「地元意識」「帰属意識」がめちゃくちゃ強い。多分小出さんも自分の地元に対して同じような事を感じていたんじゃないだろうか。(上に挙げたティザー映像でもそれを感じることが出来る)いくら大きな都市に出ていっても、結局地元に戻ってくる。やりたい事や夢を捨てて、地元に残る。「夢なんて叶わない」という潜在意識が勝手に蔓延して、「どうせ東京なんか行っても何も変わらない」という刷り込みがされる。「だったら地元に残って地元の為に働こう」「みんな残ったり戻ったりしてるから僕もそうしよう」という考えに無理やり矯正される。別に本当に地元が好きでより良くしたいから残る、ってんなら構わない。けど、他人の勝手な刷り込みでそういう人が増えていくのは紛れもなく「同調圧力」だ。「みんな地元残ってるよ?『普通』皆残るんだよ。お前だけ夢を追いかけるの?馬鹿じゃねぇのww」的な同調圧力。冗談じゃない。ここまでハッキリと「地元帰属という名の同調圧力」について歌ってくれたBase Ball Bearに僕は感謝しかない。常常僕は地元が大嫌いだし、「地元帰属という名の同調圧力」も死ぬほど嫌いだった。そういう同調に負けないようにこの曲を戒めとして生きていきたい。

⑤yellow

http://www.youtube.com/embed/11RPbqh9_s4?autoplay=1


Base Ball Bear yellow

タレント(アイドル?)との恋路を歌った曲...なんだけど、やけに不穏。yellowっつーかblackに近い音像とメロディ。「yellow」と言いながらも「檸檬」というワードを使わなくなったあたりが「十七歳」ではなく「二十九歳」への進化を窺える。これは実体験を踏まえての歌詞なのだろうか。インタビューを読んでも「yellow」に関しての記述は少なかったので本当のところは小出祐介のみぞ知る…といったところだろうか。

⑥そんなに好きじゃなかった


Base Ball Bear - 「そんなに好きじゃなかった」Music Video

このアルバムのリードトラック。Base Ball Bearには珍しく日記調の歌詞で、1番と2番で真逆の内容になっている。これも「両極端」を表現しているのだろう。映画「500日のサマー」を見ていた小出とそのマネージャーが、鑑賞後に映画について喋っていた時に「まあ色々あったけど、結局そんなに好きじゃなかったってことでしょ」とマネージャーが言った事がキッカケでこの楽曲が制作された。そのエピソードをキッカケに僕も「500日のサマー」は鑑賞したが、なるほどこれは確かに「そんなに好きじゃなかった」だ。興味のある方は是非。楽曲はオールド感漂うエイトビートアメリカンロック、といった感じだろうか。一見するとありきたり、でも確かな経験と技量が無ければ出来ない作風だ。8年間で多種多様な作品を作り出してきたBase Ball Bearだからこそ出来た作品。

⑦The Cut feat,RHYMESTER(Album mix)


Base Ball Bear - The Cut -feat. RHYMESTER-

小出の憧れのミュージシャンであり、今では盟友(?)の1人でもあるRHYMESTERをフィーチャリングした「The Cut」のアルバムミックスバージョン。よりソリッドになった音と歌詞がまたいい塩梅でマッチしている。これこそまさに「ギターロックの幅を広げる」作品だろう。下手なミクスチャーロックで終わるのではなく、あくまで「ギターロック」にラップ表現を加えて、その上でどこまで「ギターロック」で在れるか。まさに「挑戦」という言葉が似合う楽曲。今までになかったものを作り出す、という意味ではまさにクリエーターの姿勢として真っ当だと言える。RHYMESTERならではの批評的な文脈を受けて、小出作品としてはこれまで無かった様な「現代人批評」的作品になっている。小出はむしろ、「怒り」を抱きがちな人だった。それなのにこの作品まではそれを昇華出来ていなかった。この「The Cut」があったからこそ、この後制作された「それって、for 誰?part.1」が出来たのではないだろうか。


Base Ball Bear - 「それって、for 誰?」part.1

⑧ERAい人


Base Ball Bear  ERAい人

「The Cut」でも出てきた「ERAい」というワードが頻出する、このアルバムの中でも1番音像で言えば「カオス」という言葉が似合うような楽曲だ。

「ERAい”僕たち”は同じ服が来たくて」

「ERAい“僕たち”は同じ恋がしたくて」

「ERAい””僕たち”は同じアプリ使いたくて」

「ERAい”僕たち”は同じことが言いたくて」

「ERAい“僕たち”は同じ人になりたくて」

「ERAい“僕たち”は同じ人を敵にして」

「ERAい“僕たち”は同じ流れに乗りたくて」

「ERAい”僕たち”がERAいと疑わなくて」

歌詞はこれまさに「普通という名の同調圧力」について歌っている。当然のように「同じ」モノとされ、そこから少しでもはみ出せば「普通じゃない」という烙印を押される。「普通」とはつまり「個性」の抹殺。

 ⑨方舟


Base Ball Bear 「方舟」

音も歌詞も、揺らぎの中をいったりきたりしているような感覚だ。ここでの「船」はつまり「人」そのものを指す。

「行き交う数多の豪華客船や幽霊船や泥舟や」

というのは他人。

「僕以外間違いか僕が間違いか 気にしたり気にしたり 繰り返して 勘違い場違いすれ違いを 気にしたり気にしたり 繰り返して」

普通に慣れ過ぎて結局自分も普通でいるのかを気にしてしまったり、普通とはずれた自分がどう見えるのかを気にしたり。結局人の目が気になってしまう。

⑩The End


Base Ball Bear - The End

ドラ〇エ風の世界観。ラスボスの魔王を倒した勇者のその後のような世界観を使って、「普通」というデビュー当時からのテーマをこのアルバムで描き切った、けれど僕たちはこれからも「普通」を暴き続ける、という宣言するかのような歌詞。

すでにご存じの通り、2016年3月にGt湯浅将平が脱退した。その直後の開催となったツアー「LIVE BY THE C2」、そして「日比谷ノンフィクションⅤ~LIVE BY THE C2~」ではラストにこの曲が3人体制で披露された。

「終わりはそう終わりじゃない」

「エンドロールは走馬灯じゃない」

「物語に終わりなんてものはない」

「ラストシーンはスタートロールでしかない」

「僕の人生は続く続く」

Base Ball Bearのこの先に期待せずにはいられない選曲だった。

スクランブル


Base Ball Bear - スクランブル

 これも「両極端とその真ん中」を歌った楽曲だ。「普通」とは別に「両極端の真ん中」ではない。交差点のように交わる、相反する感情や相反する人たち。

「悪い人がプレゼントを抱え家路を急いでる」

「善い人がはみだした下心で電話してるよ」

「主人公は雨の中でびしょぬれのまま慟哭」

「端役は傘をさして時間10分前に営業先へ」

いずれも逆を行くような歌詞だ。「普通」なら「悪い人」は「はみだした下心で電話」してるし、「善い人」は「プレゼントを抱え家路を急ぐ」。「主人公」なら「雨に濡れる」事はない。「端役」こそ「傘をさす」ことはしないだろう。「でもこれが普通という凶器」なのだ。勝手に「普通」というイメージを組み立て、それと反すると勝手に違和感を覚える。

⑫UNDER THE STAR LIGHT


Base Ball Bear 「UNDER THE STAR LIGHT 」

今までの割とゆったりとした流れを断ち切るような激しい王道4つ打ちロックナンバー。「PERFECT BLUE」のティザー映像とこの曲のティザー映像をと併せて見てもらえばお分かりいただけるだろうが、この2曲は対になる楽曲なので、「PERFECT BLUE」と併せて後述。

⑬PERFECT  BLUE(Album mix)


Base Ball Bear - PERFECT BLUE


Base Ball Bear 「PERFECT BLUE(Album Mix)」

2013年2月にベスト盤と同発されたシングル曲のアルバムミックス。一見すると「Base Ball Bear十八番の青春ソング」なのだが、実はダブルミーニングになっている。

「遠くで煙が昇って行く」

「君は翔んだ あの夏の日」

「凛とした青い空にとけてしまったのにね」

「つめたくなった手に触れた夜もそうだった」

「君の知らない季節がほら、はじまるよ」

「出せなかった 君への手紙」

「会いたいよ また、君に」

つまり、「自殺した少女を思う少年の詩」なのだ。「煙」とは火葬場の煙のこと。「つめたくなった手」は死後の彼女の手。こんなに重く切ない歌をここまで軽妙でポップな曲に乗せた、まさに新機軸な楽曲だった。

「だった」。つまり、アルバムに収録された段階で「そのさらに上」へとこの曲はレベルアップしてしまった。ここで先ほどの「UNDER THE STAR LIGHT」の歌詞を記す。

「零れそうな流星群 その真下を真下を駆け抜けた」

「溢れそうな暗闇 切り裂いて切り裂いて駆け抜けた」

「Falling down Falling down 君の手を引いて駆け抜けた 瞬間に瞬間に駆け抜けた」

「振り切りたくて 駆け抜けた」

「うなずいて涙した君のきらめきが 夜を彩りながら加速していく」

「もう引き返せないと静寂がささやいても この手を離さない」

「UNDER THE STAR LIGHT どこまでも 行けるはずだよ」

「ふたりこの夜空を超える風になって」

「連れてくよ 新世界へと」

「誰も知らない」

誰の目も声も届かない」

「僕らにしか掴めない」

「結末へと」

「心の中へ」

この曲はつまり、「心中を図った男女の詩」だ。そしてこの曲が配置されることで「PERFECT BLUE」は「自分から心中を図ったにも関わらず自分ひとりだけ取り残された男の詩」へと変貌を遂げる。ダブルミーニングどころの話じゃなく、トリプルミーニングとなるのだ。そして「UNDER THE STAR LIGHT」もまた、ダークさと疾走さがあるロックサウンドがこのギミックがかかることでより一層重さを増し、残酷さすら漂う歌となってしまう。このギミックを考え付いた小出祐介にただただ脱帽しかない。この一見爽やかで、それこそアニメのタイアップなんかが付きそうな2曲だが、このギミックによって後のこのアルバムの核となる楽曲への大きな橋渡しとなっている。

 ⑭光蘚(Album mix)


Base Ball Bear 光蘚 (Album Mix)

アニメ「惡の華」コンセプトE.P「惡の花譜」の書き下ろし曲のアルバムミックス。「惡の花譜」への収録や、その後すぐ行われた学園祭ツアーでの披露、そして「Tour 光蘚」と、ツアータイトルに曲名が冠されるほどで「気に入ってんだなぁ」とは思ってたけど、まさかアルバムに収録されるとは思ってもみなかった。10分近くもある大作で、明らかにBase Ball Bearの色とはそぐわない、「小出祐介」の深層心理に深く深く潜って行くような楽曲だった。しかしこのアルバムでは一転して、まさに「核」となるような力を発揮している。ここで歌われるそれは、彼自身が今まで感じてきた、でも言葉や表現に昇華出来なかった「何か」だった。サウンドは1mmの爽やかさも、ロックバンドらしい疾走感も無い、吐きそうになるくらいの重さ。そこにどす黒さすら感じる、でも痛いほど共感してしまう歌詞が乗っかるのだ。

「足りないものなど 何もないのに 足りてない」

「本当に欲しいもの 分かってないのに、足りない」

永遠と続く虚無感。何をしていても満たされない感覚。自分でも分からない、だけど満たされない。満たされたい。

「光が差し込む あの丘には君がいる」

「光を浴びたい だけど行けない 君がいる」

「丘」とはつまりカースト現代社会において身分制度は存在しないものの、「スクールカースト」という言葉に代表されるように、「精神的なカースト」みたいなものはどんな年になっても存在する。嫉妬や自分を卑下する度にそのカーストを感じてしまう。感じ続けてしまう。カースト下位の暗がりの中にいる「僕」に対して、カーストという丘の上に立つ「君」。「僕」も丘の上に立ち、「幸福」という名の光を浴びたいと願っている。

「君が待つ あの丘には行けない 行けない どうしても」

「君のその笑顔をどうしても引き裂きたくなる」

「這いつくばって だから這いつくばって」

「這いつくばって 僕は這いつくばって」

「輝くしかないから」

自分は一生懸けてもあの丘に登る事はないだろう。あの光を浴びる事はないだろう。そんなキャラでも無いし、そんな才能も無い。でも、だったら、だったらせめて、この暗がりの中でも構わない。自らが光源となって輝くしかない。輝きたい。

「君が待つあの丘に着いたら着いてしまったら」

「君を食らって」

「僕は君を食らって」

「そうだ 君を食らって」

「僕は君を食らってでも」

「輝こうとするだろう」

もし僕が君のように丘に立ってしまったら、この丘の上にしか当たらない光を、丘の下に立つ者達でも浴びれるように、僕が光源となる。そのために丘の上に立つ君を食らうだろう。

「光りたい」

「光りたい」

「光りたい」

「光りたい」

光を浴びるのではなく、自らが光りたい。本当の意味で「丘に立つ」ためには自分自身が光らないといけない。

「僕は君を食らって」

「僕は君を食らって」

「僕は君を食らってでも」

「輝くしかないから」

丘の上に立てない僕は、どんなことをしても、例え君を食い尽くしてでも、自ら輝くしかないんだ。

⑮魔王


Base Ball Bear 魔王

「光射すあの丘に 旗を立てた彼のように」

「なりたい でも なれない」

「それじゃ、僕じゃないから」

 そりゃ自分だって丘というカーストの上に旗を立てた彼のようになれるモノならなりたい。でもそれは叶わない。「彼」になってしまったら「僕」じゃなくなるから。

 「終わらない夜の中で 出られない闇に包まれ」

「変われない僕を恨んで それでも、僕でありたい」

「仄暗い森の中で つめたい風に吹かれて」

「広がる苔みたいに 僕らしく輝きたいから」

ずっと満たされぬまま永遠と続く虚無感は、やがて自らの身の周りを覆うような闇に姿を変え、その闇は僕の形をしながら「僕が変わればこの闇も解けるよ」と囁く。それでもなお、僕は変われない。変わりたくない。闇を背負ったままでもいい。僕は僕らしくいて、それで輝けばいい。

 

ここで闇は解け、『僕』は光に包まれる。

 

「いないことにされてた 僕の呪い(のろい)が」

「君の傷を癒す お呪い(おまじない)になりますように」

 

このアルバムが出た当時、とある音楽ライターが「魔王」サカナクション山口と小出の関係性を描いた曲だと書いた。実際そういう解釈だって十二分に出来るだろう。自分のライブの、言ってみれば前座としていて出演していたサカナクションは、今や紅白出場バンド。その差は歴然。勿論、「紅白に出たから偉い」などとは微塵も思わないが、小出だって思うところはあったはずだ。自分と価値観や音楽へのスタンスが同じだった筈の彼だけが、「大舞台」という名の「光射す丘」に立ち、「人気」という名の「旗」を立てた。そういった解釈だって出来る。でも僕は、「この曲は"自分らしくある"ということを歌っている」んだと思っている。誰にだって大なり小なり、人と合わせたりすること、つまり散々言ってきた「普通にすること」を経験している。でも、いくら自分を偽って「普通」になって、「光射す丘」に立ったところで意味はない。残るのはどちらにしても虚無感だろう。自らを偽り続ける虚無感。だったら、例え闇の中だろうと、自分らしく生き続ける事が出来たならば、そんなに素晴らしいことはない。まさに14曲の中でずっと「普通」について歌ってきたこのアルバムの終幕に相応しい、光射すような幕切れだ。

 カナリア


Base Ball Bear カナリア

「魔王」で終幕した物語に、優しく流れ込むエンドロール。

 

「あっという間の日々は続く」

「良いのか悪いのかでずっとずっと悩みながら」

「ぞっとするほど日々は続く」

「帳尻あわせて 折り合いをつけつづけてさ」

「それでも 自分を信じられることがあるから」

「救われるよな」

 

「両極端」は無駄だと分かっていても、「良いのか悪いのか」で人は一生悩み続ける。答えなんか出るわけも無く、みんなみんな「帳尻合わせて 折り合いをつけつづけ」る。そんな「普通」な日々の中で「自分を信じられることがあるから」人は皆「救われる」のだ。

 

「二十九歳」。僕がずっとモヤモヤとしていて、明確に言葉にできなかった何かがこのアルバムに詰まっていた。「普通」という名の「同調圧力」。僕はずっとこれに苛まれ続けてきたんだ。でも、「僕は僕らしくいればいい」。誰かに合わせる必要も無ければ、誰かと同じ道を歩む必要も無いし、誰かの模倣をする必要も無い。僕は僕でしかないし、僕のままでい続ければいいんだ。こんな単純で、でも単純故に分かっていなかったことが、このアルバムひとつで全て解消された。小出祐介の普通に対する「呪い」は、僕にとって「傷を癒すお呪い」になっていた。だから僕はこのアルバムが愛おしい。Base Ball Bearにはいつまでも「普通」を暴き続けてほしい。この人生における永遠のテーマを暴き続けて欲しい。

 

二十九歳(初回限定盤)(DVD付)

二十九歳(初回限定盤)(DVD付)

 
二十九歳

二十九歳

 

 

参考ページ

natalie.mu

natalie.mu

www.m-on-music.jp

baseballbear29.com

togetter.com

たまには思いついたことを思いついたままに書いてみよう

はい。タイトルの通りです。思いついたこと思いついたまま書きます。このブログを立ち上げて以来の「ブログらしいブログ」になる気がする。

 

最近「アイアムアヒーロー」見たんですよ。そんで文章にしようと書いてたんだけど全然筆が進まないの。なんでだろ。マジで傑作なんですけどね。日本映画でもここまで出来るんかって感心する。めっちゃグロイしめっちゃ怖い。原作もかなり良いんだけど、そのいいところをより良くしている。映像化の最も良い例。もう2時間ビビりっぱなし。でも笑えるところは笑えるし、最後はやりすぎなくらいキメちゃってる。人のタガが外れる瞬間を見れるというか。是非たくさんの人に見てほしい作品。早く原作も追いつかないとな。

 

Perfumeのライブも見てきました。ツアーもこの先続くし、あ~ちゃんからネタバレ禁止令も出てるので、国内ツアーが終わるまではレビューは(もう書いた)公開するつもりもないけど、Perfumeのライブは本当に素晴らしい。最新技術を織り交ぜた大スケールの演出、彼女達の天使にも近い人間性、日本一の盛り上げ上手っぷり。もう全編に渡ってクライマックス。ずっと。凄すぎ。Perfume尊い

 

最近あったことといえばコレ。

なんかスッゲー喫煙所でおじさんに話しかけられる率が高い。ほぼ100%話しかけられる。昨夏にサザンの武道館見に行った次の日に横浜の居酒屋でも話しかけられたし、その帰りの新幹線の中でも話しかけられたし、この前も大学の喫煙所で図書館のおじさんにタバコ吸うなって説教されたし。なんで21の大学生捕まえて喫煙所で吸うタバコに対して説教してんだ。お前は母親か。

そうじゃなくても、知らない人とかによく話しかけられる。地元の駅前なんかにいた日にゃ100%誰かしらに声をかけられる。この前も見たこともないこちとら人見知りだっての。泣いちゃうぞ。


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ケータイを機種変更しました。5sから6s。基本的な部分はびた一変わらん(そりゃあな!同じOS使ってんだもんそりゃあな!)のだけれど、細かい部分で全然変わってる。ちゃんと機能として増えた点も、側としてのマッシュアップもちゃんと感じ取れる。画面が大きい&映像美がやっぱり俺はスゲー良かった。ただまあデカ過ぎて使いにくくなった点もあるけどね。痛し痒しというか。ガラケー全盛期は「いかに小型化するか」がケータイ会社にとってのジャスティスだったのに対して、スマホの出現以降、如何に大型化&薄化していくかに変わったの、時勢の変化を感じてスゲー面白い。そもそもモノ自体の機能や在り方が全く別次元だからそうなるのは当然なんだけど、でもすっごく面白い。


はい。こんなもんかなぁ。このダラダラ思ったこと書くシリーズはまあまたいつか。


【音楽コラム】そろそろ桑田佳祐が本当に反日なのかそうでないのかハッキリさせよう

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2014年末の年越しライブの演出・及び紅白歌合戦への出場に端を発した「サザン桑田不敬騒動」。メディアが大きく取り上げなかったこともあり、ネットで話だけが大きくなってしまった。今でも「桑田佳祐」と検索をかけるだけで「不敬」「反日」というワードが目に入る。それを擁護するようなページも数多くあるのだが、「反日だ!」とする記事も「いいや彼は何も悪い事をしていない!」とする記事も、どちらも根拠がめちゃくちゃで、感情論が過ぎる、といった印象を今でも受ける。そしてこの騒動を取り上げた著名人も「事実」についてはまるで二の次で、「話を聞き齧った」程度で持論を展開していたような印象だ。今更蒸し返すようではあるが、本当に桑田佳祐反日なのか?そうでないのか?この騒動が勃発していた当時は、僕もファンのひとりとして感情的になっていた節があった。が、1年という時を経て「ファン」「愛国」「日本人」といった感情は1度捨て、事実を僕なりに客観的に追い、誰もが目を背けていたこの騒動の真実を白日の下に晒らしてやろうと思う。

 
桑田佳祐が作った韓国や中国をテーマにした作品の祖はサザンオールスターズ「NUDE MAN」に収録された「流れる雲を追いかけて」まで遡ることになる。原由子がボーカルを取るこの曲は「中国残留孤児」について歌っている。また、同じく「中国残留孤児」についてアルバム「綺麗」に収録されている「かしの樹の下で」でも歌われている。ちなみに中国残留孤児とは、第二次世界大戦末期にソ連軍の侵攻と関東軍の撤退により日本へ帰国できず、中国へ残留した日本人のことを指す。当時中国・満州関東軍が占領し、「満州国」とされており、沢山の日本人が移住していた。しかし上記した侵攻や軍の撤廃により、第二次世界大戦末期に満州の日本の支配権は崩壊、入植していた日本人の帰国は事実上不可能となり、中には亡くなってしまった日本人も数多くいた。その後この問題が収束へ向かうまでには長い時間がかかった。それこそ上記した「NUDE MAN」、「綺麗」などの作品群が発表される同じ頃に収束していったと聞く。桑田は後に「父親が満州にいた頃もあった」といった旨の発言もしていた。あくまでも推測ではあるが、恐らく桑田の父は「残留孤児」とまではいかないものの、それに近い境遇であったことは間違いないのではないだろうか。
桑田佳祐が「反日」とされる根拠としてよく引き合いに出される歌が2曲ある。「KAMAKURA」に収録された「悲しみはメリーゴーランド」という楽曲だ。今でもニュースの的になっている「従軍慰安婦」や「創氏改名」について「隣の国の人たちの目線で」歌われている。この「目線」が引き合いに出される要因になっているのだろうが、社会派な歌に限らず「自分以外の目線に立って」歌詞を書く、ということはよくあることなのではないだろうか。例えば、有名なところでは福山雅治の「squall」という楽曲は福山が女性目線に立って歌詞を書いている。もっと言えばサザンの同じ社会派な楽曲にしたって「平和の琉歌」という「沖縄に住む人々」の目線に立って歌われた曲もある。勿論「国を越えた」目線、というのはなかなか無いのかもしれないが、それにしたって「韓国人の気持ちを歌っている!!こいつは在日だ!!」なんて、あまりにも飛躍した論調ではないだろうか。

そしてもう1曲。シングル「あなただけを〜Summer Heartbreak〜」のカップリング「LOVE KOREA」。上記した歌のように社会派な歌詞や曲調ではないが、そのあまりにも真っ直ぐ過ぎるタイトルや、ハングル語が出てくるこの曲を根拠に「桑田佳祐反日」とする人々が散見された。そもそも論だが、もし仮に桑田佳祐在日朝鮮人だとして、ここまでド直球な歌詞を書くだろうか。韓国のミュージシャンだって「LOVE KOREA」なんて曲を日本で歌うことはしない。寧ろこんな曲を作ることが桑田佳祐が日本人だという証左になっているのではないだろうか。当時は今ほど「韓国」そのものが(良くも悪くも)日本中で話題になる前だろう。韓国人ミュージシャンが日本のチャートを席巻したり、韓国グルメが日本で流行するようになったのもつい最近だし、所謂「反日デモ」が勃発したのも「その余りにも違和感のある過剰なブームっぷり」がキッカケだったと僕は考えている。この曲が発売されたのは1995年。勿論無くは無かったとは思うが、今ほど「韓国」という存在が日本の中で大きくなかったのではないだろうか。今「LOVE KOREA」というタイトルの曲を作るのと1995年に「LOVE KOREA」というタイトルの曲を作るのでは訳が違う。作品はその当時の時勢や流行という要素も大きく関わる。事実、桑田は当時の雑誌のインタビューで「たまたま韓国料理の美味い店を見つけたから題材にしただけ」と述べている。その真偽は兎も角としても、どう考えても「LOVE KOREA」と歌ったから「反日」というのは無茶苦茶だ。仮に「親韓」だとしても、「親韓」だから「反日」だとする論理の方が僕は気持ちが悪いと思う。そんなに争いたいのか。
LOVE KOREA

LOVE KOREA

さて、話はいよいよ核心に触れるのではないだろうか。上記した「サザン桑田不敬騒動」で散々引き合いに出された2013年の「ピースとハイライト」だ。当時からその歌詞やタイトルについて意見が噴出していたが、14年末の騒動を機に、演出や歌詞を含め、まさに「曲解」とも言えるような解釈をする意見が増えた。この曲は「希望の種を植えていこうよ 地上に愛を育てようよ」「絵空事かな?御伽噺かな?互いの幸せ 願うことなど」「いろんな事情があるけどさ 知ろうよ互いのイイところ!」という歌詞にある通り「お互いのいいところを尊重し、意見を認め合おうよ!」という歌詞ではないのだろうか。そりゃ歌詞にもある通り「御伽噺」だと言ってしまえばそれまでだが、希望や平和を願う事すらも否定されてしまうのはあまりにも辛い。1番この曲で問題とされている歌詞は「都合のいい大義名分で 争いを仕掛けて 裸の王様が牛耳る世は...Insane」という歌詞だろう。この歌詞を「安倍首相を批判した歌詞」「集団的自衛権を揶揄した歌詞」という解釈をしている人が多かったと思う。だが、「裸の王様」という歌詞で連想されるのは何も安倍首相だけではない。北朝鮮金日成なんかの方がよっぽど「裸の王様」らしいし、今となってはアメリカ大統領選のトランプ候補なんかの方が安倍首相に比べてよっぽど「裸の王様」らしいと言えると思う。そういう色んな人々全部引っ括めて「裸の王様」だと揶揄しているのだ。「反日」でも「親韓」でも何でもない。「地球という国」そのものの未来を憂いている歌詞、というのが適切なのではないだろうか。「教科書は現代史をやる前に時間切れ」というのも割と事実に則ってる風に感じる。戦中〜戦後についてガッツリと習った記憶はあまり無いし、満州を占領したり、太平洋戦争を日本が仕掛けたという記述は少なく、広島長崎に原爆が投下された、という部分について教科書では大きく論じられていたように思う。是非手元に中学校の歴史の教科書がある方は確認してほしい。勿論、広島長崎への原爆投下は絶対に許される事ではないし、語り継がなくてはいけない事だろう。しかし、それと同時に日本が行ってきた事も見直す必要がある。近隣諸国との関わりを深めるためには戦中以降の歴史をより深く学ぶ必要があるのは間違いない。それなのに肝心のその部分が抜け落ちている。相手国と自国の認識の差、とかいう以前の問題なのではないだろうか。

「ピースとハイライト」というタイトルに関しても、「平和と極右」という解釈をしている意見を見かけた。僕個人の見解を言うのならば、「右も左も極端に振れてしまったら本当の意味での平和は望めない」。しかし、あくまで僕の意見ではなく客観的な視点に立つとするならば「タバコと平和をかけてるだけ。ハイライトは桑田本人が吸っていた煙草の銘柄だろう」だ。

さて、「ピースとハイライト」については歌詞だけではなく、ライブでの演出についても(最早確信犯的とも言えるような)様々な曲解がなされた。
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これは2013年のスタジアムツアーで「ピースとハイライト」が演奏された際の映像だ。ご覧のとおり、釣魚島(尖閣諸島を構成する島の1つ)を中国領土だと主張するプラカードや、日の丸にバッテンを描いた映像が流れた。言うまでもないが、これは中国や韓国で起きている反日デモの映像であり、何もサザンオールスターズとしての主張などではない。映像を見れば「世界情勢のニュース映像を演出として利用した」ということは明らかだ。これを本気で「サザンとしての主張」と言い張る方がいるのだとしたら是非通院を推奨する。こんなもの事実かどうか、感情論かどうかとか以前の問題だ。
とはいえ、桑田佳祐が日の丸にバツをつけるような人間ではないという証左も必要だ。
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これは2011年に開催された桑田佳祐のソロライブ「宮城ライブ〜明日へのマーチ!!〜」で「月光の聖者達(ミスター・ムーンライト)」を演奏した際の画像だ。2011年の宮城といえば東日本大震災の直後。このライブは被災地支援のひとつとして震災から丁度半年の9月10日、11日に開催された。その際に、桑田佳祐はハッキリと日の丸を背に、バツ印が描かれた日の丸なんかじゃなく、紛れもない日の丸その物を背に歌い上げているのだ。
話を戻そう。2014年10月に桑田佳祐紫綬褒章を受章。そして14年末、サザンオールスターズは年末の4日間に渡り、年越しライブ「ひつじだよ!全員集合!!」を開催。10年振りの開催ということもあり、チケット争いは熾烈を極めた。初日は安部首相が鑑賞しに来るなど、2014年の暮れのニュースを賑わせた。僕は辛くも30日のチケットをゲット。バックステージ席ではあったがサザンの演奏を心から楽しんだ。翌日31日、サザンはライブ会場からの中継という形ではあったが、紅白歌合戦に31年ぶりに出場した。歌唱したのは上記した「ピースとハイライト」、そして「東京VICTORY」。その際のパフォーマンス・及び紅白では流れなかったもののWOWOWで中継されていたパフォーマンスが騒動の一端となったのは御存知のとおりだ。実際に謝罪文まで発表された。
では、実際どういったパフォーマンスだったのか、順を追って改めて書き記していきたい。
紫綬褒章オークションギャグ&天皇陛下のモノマネ問題
中盤で紫綬褒章のお披露目コーナーが設けられていたのだが、その際に「5000円から」というギャグを桑田は口にしていた。これに関しては今思い出してもアウトだった。元来から日本人は人から頂いたモノを大切にする風習がある。僕も昔もらった手紙とか、なかなか捨てられないタチだ。ましてや天皇陛下から貰ったものだ。僕自身は天皇陛下を今でも過剰に支持するような考えではなく、あくまで「日本の象徴」だと思っている。しかし、それにしたって「日本の象徴」からいただいたものを5000円っつーのはいくらなんでも、ギャグにしたってキツイ。モノマネに関しても同じだ。実際、僕がライブに参加した時もこのギャグは口にしていたが、「大丈夫かよw」と思っていた。案の定こういった結果になってしまった。勿論、オークションに関しては桑田佳祐なりのギャグで、まさか本気で言っている訳じゃないし、モノマネに関しても桑田なりにその場の雰囲気をお客さんに感じてほしい故の行動なのだろうが、にしたってダメなもんはダメだろう。これは紛れもなく桑田側の落ち度だと言わざるを得ない。
②尻ポケットから褒章
これに関しては「パフォーマンス」ではないが、便宜上ここに記載する。31日の公演で紫綬褒章を披露する際に、尻ポケットから褒章を出したとされる問題。この日はWOWOWの中継や紅白もあって、時間的な余裕が他の公演に比べて明らかに少なかったように思う。僕が参加した30日の公演では桑田は公演中に水分等を置いておく台の上に褒章を箱ごと置いており、箱から出していたように記憶している。しかし、31日公演は尻から褒章を出していた。これに関して桑田自身からラジオにて謝罪と共に説明がなされた。

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尻ポケットに関しては「段取りを間違えた」とのことだ。当日参加された方のレポートを拝見したが、歌詞を表示するディスプレイとは別に、MC等の時間を表示するディスプレイまで配置されていたそうだ。「段取りを間違えた」のが事実かどうかは桑田佳祐にしか分からないが、少なくとも「段取りを間違えた」という説明にある程度の説得力はあるのではないだろうか。これに関して現状あるだけの情報で言える事とすれば、「ただでさえ時間に追われている紅白で、ライブの途中から中継なんて滅多にやるもんじゃない」くらいのものだろうか。実際それについてはNHK側も反省しているのだろうか、翌年の紅白ではBUMP OF CHICKEN福山雅治が中継での出場となったが、どちらもライブのど真ん中ではなくライブスタートすぐの2曲目だったり、本編が始まる前だったり、とにかくライブ本編を邪魔しないような時間設定になっていた。とにかくこれに関しても運営側・桑田側の落ち度であるというのは事実だろう。ちなみに余談ではあるが、この騒動に対してビートたけしが新聞のコラムで「ああいうパフォーマンスをするなら偽物にしないといけない」と語ったそうだ。が、これは桑田佳祐がラジオで謝罪をした後。たけしさんと桑田さんは互いにその才能を認め合っており、これもその延長線みたいなもんなのだろうが、にしたってたけしさんともあろう方でも又聞きでこういう批判をしてしまうのかとちょっとガッカリした。

③チョビ髭がヒトラーを揶揄しているんじゃないか問題

これに関してはもう屁理屈としか…。勿論、「ピースとハイライト」というテーマが社会派な曲を歌う以上はある程度気を使うべきだったかもしれないが、いくらなんでもチョビ髭からヒトラー連想するとは運営側や桑田も想像できないだろう。これ、裏を返せば右寄りの人ですらなんとなく安部をヒトラーと照らし合わせている節があることの証左になってしまっているよな。普通安部をヒトラーだ!なんていわねぇって。

 

以上が「ひつじだよ!全員集合!!」で問題として挙げられた桑田のパフォーマンスだ。ここだけ切り取ってしまえば確かに桑田佳祐・運営サイドにも一定の落ち度があったことは事実だろう。そこは桑田も、アミューズも反省しなければならない点であり、大いに猛省していただきたいところである。

だがしかし、これだけで「反日」とするのは聊か飛躍しすぎている、というのもまた事実だろう。まして「ピースとハイライト」を始めとする楽曲の「都合のいい解釈」、平和を祈るライブ演出に対する的を外れた批判など、どう考えても「反日に仕立てあげたい」がために無理やり文句を付けている様だ。思い返せば、東日本大震災の直後、真っ先に音楽を媒体とした規模の大きい支援活動を始めたのは桑田佳祐だった。「チーム・アミューズ!!」というプロジェクトを立ち上げ、当時暗闇の様な日本を率先して元気づけた。実際にこのプロジェクトで集まった金額は全て赤十字へ募金された。その額なんと2億円だ。

チーム・アミューズ!!

この企画に対しても否定的な意見を散見した。3月11日に発生した地震のチャリティソングを4月20日には配信開始している「急ごしらえ」の作品に対して「クオリティが低い」という意見は流石に馬鹿げていると思うが、例えば「うすら寒い笑いは必要ない」などと思う方も一定数いるだろう。しかし、当時の日本に足りなかったのはやはり「笑い」だと僕は感じるし、この企画で重要なのは「お金を集める事」に他ならない。チャリティーの本質は結局「金」だろう。いや、言葉にしたら悪く聞こえるが、被災地に一番必要なのは物資でありお金だ。それは間違いない。

結局、この「チーム・アミューズ!!」にしても、「桑田佳祐反日論争」にしても「快」か「不快」かでしか物事を判別できない人間の本質がまざまざと出ているように感じる。自分の感情も大事だが、一度俯瞰して物事を見つめた時に「正しい」か「正しくないか」、もっと言えば「相手の気持ちに立つ」「それに関係する人の立場に立つ」ということが何より必要なことなのではないのだろうか。現代の日本や世界にはそれが足りていない気がしてならないのだ。

話を戻すと、震災後真っ先に宮城でライブを開催したのも他でもない桑田佳祐だ。上記した通り、桑田は半年後の宮城でライブを開催した。遺体安置所として使われていた会場だった。ライブが始まってすぐに犠牲者への黙祷を捧げ、ライブの終わりには日の丸を掲げた。北朝鮮拉致問題に関する歌詞を幾度となく書いている(直近で言えばMissing Personsなど)。自民党政権だけでなく民主党政権を批判するような楽曲も作っている(現代人諸君!!など)。ライブやラジオで積極的に君が代を演奏している。東日本大震災以降、自信最大のヒットナンバーであるはずの「TSUNAMI」を被災者感情に配慮して演奏していない。など、客観的事実としても桑田佳祐はこれだけの「日本人らしい」振る舞いをしているし、そうじゃなくても日本にこれだけの作品を残し続けてきた人なのだ。韓国ではなく、日本に。これだけのことをしている人に「反日」や、まして「在日」などというフレーズを投げかけるなんて僕なら出来ない。

改めて結論を出そう。彼は「反日」でも「在日」でもない。日本への愛情を持ち、それ故に時には批判的な歌を歌うこともある、至極まっとうな日本人だ。彼のサービス精神の旺盛さ故に、たまに失敗してしまうこともあるが、そこに他意は全く無い。


サザンオールスターズ - 蛍 「SUPER SUMMER LIVE 2013 "灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!" 胸熱完全版」

 

如何だっただろうか。あの騒動から1年以上が経ち、騒動もすっかり鎮静化した今、「なんで今さらそれに触れたの?忘れてたのに馬鹿なの?」とお怒りのサザンファンの方もいらっしゃることだろう。イヤなことを思い出させてしまって本当に申し訳ない。しかし、1年という時間が経ったからこそ、見つめ返せる事があったような気がする。

最初に「客観的に見つめ返す」などとのたまっていたが、実際客観視出来ていたか、なんて自分じゃよくわからない。多分できてないと思う。それでも、自分なりに客観的に理詰めでこの騒動を纏めたつもりである。最後ばかりは僕の主観的な話になってしまうが、騒動当時も、そして今でも、きっとこの先も、「桑田佳祐は僕の憧れであり、大好きな日本人ミュージシャン」なのはずっと変わらない。


ー追記ー

この記事をTwitterにアップしたところ、大きな反響をいただきました。ありがとうございました。仲良くしていただいてるアカウントの方と改めてこの話題について論じていた所、自分もさらに深い着地点を見つけたのでここに改めて記させていただきます。

結局、今回取り上げた騒動の最終的な着地点って「どこまでが右でどこまでが左なのか」、つまり「右と左の線引き」になってしまうような気がするんです。僕は右だと思うことも、違う人からしたら左に見える。その逆もまた然り。最終的に「価値観のズレ」でしか無いような気がします。勿論、明らかにそれは右だろう、左だろう、ということはあると思います。が、恐らく大半の日本人はその「極地」には行き着いておらず、中間の微妙なバランスでどちらかといえばこちら、どちらかといえばあちら、というのが実は本質なのではないでしょうか。右寄りの人は勿論日本の事を考えてる。でも左寄りの人も実は批判的な視点を持つことで日本をより良くしたいと考えているんじゃないだろうか。じゃあその「左寄り」の本質って実は「右寄り」なんじゃないの?とか、自国に対して批判的な視点を持たない「右寄り」の人って実は日本を壊している、つまり「左寄り」じゃないの?とか。その微妙な価値観の行き違いが今回のような騒動だけでなく、今まさに巻き起こっている「ネトウヨ」「ブサヨ」論争の大きな要因なのではないだろうか。


とかね。いよいよこうなってくると哲学的な話になるし、潜在的な敵を増やしかねないので止めます。ただひとつ言いたいのは、僕も含めた世界中の人たちは「自分の価値観や、同じような価値観を持ち合わせたコミュニティだけで物事を計るのではなく、より広い視点で物事を俯瞰して見る必要がある」のではないでしょうか。

【CDレビュー】祝!20周年!サザンオールスターズ「Young Love」の原点回帰を改めて読み解く

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サザンオールスターズ「Young Love」。1996年7月20日、この年に初めて制定された海の日に合わせてこのアルバムはリリースされた。前作から4年と、当時としてはかなり空いてしまったアルバムのリリースということもあり、「原点回帰」をテーマとし、それまで蜜月の関係だった小林武史との共同制作に終止符を打ち、バンドサウンドを前面に押し出した作品となった。このアルバムの特筆すべき点として前述したような「バンドサウンド」や「原点回帰」、そして「青春時代への回顧」が挙げられるだろう。当時40歳を迎え、それと同時に徐々に若手ミュージシャンがヒットチャートを席巻しだした時代(1996年といえば、Mr.ChildrenSpitzなどが圧倒的な人気を誇っていた頃だ)の中で桑田佳祐が「もう俺も若くないんだ」と思いながらも「でもまだまだ俺も若くありたい」と、相反する感情の中で作られた作品ということがこの「Young Love」というタイトルからも感じることが出来る。

 
①胸いっぱいの愛と情熱をあなたへ
アコースティックギターストローク音からキーボードの「フワー」とした音が流れ込むイントロにはこのアルバムの始まりをワクワクとさせるような何かを感じさせる。「絵になる姉御は何から何までHurricane」というAメロのまくし立てっぷりが癖になる。歌詞は男女の恋愛関係を真っ直ぐ歌い上げていて、爽やかさもあり、でもザワザワさせるような感覚もあり、それがまた魅力的。
②ドラマで始まる恋なのに
サザンらしいドラマチック正統派バラード。サザンのバラードソングの中でもかなりの出来、なはずなのに妙に桑田さんは嫌っているらしい。その証拠にその後発売されたバラードベスト「バラッド3」にも未収録だし、ライブでは1度も歌われていない。この曲をライブで聴ける日は果たして来るのだろうか。
失恋をまさに「ドラマチック」に描いた歌詞を、こちらもまた切なさのあるサクソフォンが織り交ざったサウンドに乗せ、夏の終わりと共に訪れた失恋を軽やかに、しかし切なく歌い上げている。「あの夏の恋が 思い出に変わる」。映画のキャッチコピーさながらのフレーズを切なげなメロディに乗せたサビに涙しか溢れない。
愛の言霊〜Spiritual Message〜
37thシングル。ドラマ番組とのタイアップもあり、ミリオンヒットを決めたこの曲はこのアルバムの目玉の一つでもあるだろう。歌詞も一見すると難解なフレーズのオンパレードだが、より語感を重視し結果こういった作風に仕上がったのは言うまでもない。「COME A COOL RAP」と書いて「鎌倉」と読ませたり、日本語や英語は勿論のことインドネシア語まで歌詞に取り入れていたり、ミリオンヒットを決めた作品ではあるが、内容はかなり攻め攻めの楽曲となっている。これがその後の「さくら」へと繋がった一つの要因なのかもしれない。サウンドは怪しさ漂う「和」のテイストをフューチャーした、その後の「さくら」収録曲である「CRY 哀 CRY」や「PARADICE」といった曲たちの萌芽をやはり感じさせる出来となっている。
④Young Love(青春の終わりに)
タイトル曲。THE BEATLESを彷彿とさせる軽快なバンドサウンド「今10年経って 若すぎた日が妬ましい」「来た道を憂いちゃいないが...孤独な毎日が黄昏に消えていく」「2度と帰らない"Young Love"  青春の終わりに」といった青春時代、若かったあの頃への回顧を思わせる歌詞。上記したような、他の若手バンド(今となってはサザンと並ぶ大御所バンドだが)達のシーンへの大頭で「あぁ、もう自分は若手ではないのか」ということを痛感した桑田佳祐の「若さへの嫉妬」を思わせる。
⑤Moon Light Lover
月夜の中で愛し合う男女をイメージさせるやさしいバラード。 サザンの曲にしては珍しくベース(らしき)音が目立っている。ここもまたこのアルバムのバンドらしさを感じさせる一つの要因なのかもしれない。「トゥ」や「ア〜」といったメンバーの高音のコーラスがよりこの曲の柔らかさを演出している。途中で挟まれるハーモニカもにくい程にいい味を出している。星屑がこぼれ落ちているような柔らかな月の光が照らす男女2人のシルエットを想像させる。
⑥汚れた台所(キッチン)
バンドサウンドを前面に押し出した社会風刺ソング。桑田佳祐が作り出した社会風刺ソングは数あれど、この曲は最高傑作なのではと思わされる。間奏のギターの「敢えてチープな音像」になってるギターソロが堪らなく好きだ。まさにこの世界と、それを動かしてる社会は「日替わりの運命抱いて人は行く」を体現してるし、その厭な社会の中でどう生きていくべきなのかを考えさせてくれる。桑田佳祐の社会風刺ソングにはそんな効果があるような気がする。
⑦あなただけを〜Summer Heartbreak〜
36thシングル。福山雅治が主演した月9ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌となったこの曲は、前述した愛の言霊と同じようにミリオンヒットを記録。「サザン」×「ドラマタイアップ」のコラボレーションが最も功を奏していたのがこの「Young Love」期なのではないだろうか。まさに「世間がイメージするサザン」な1曲。歌詞もタイトル通り夏の終わりの失恋がテーマ。底抜けに明るいメロディやアレンジ、そして歌唱とは対照的な「切ない失恋」を歌詞に据えることで、より切なさを増幅させる。後の「LOVE AFFAIR」に繋がるような萌芽をここに見ることが出来る。
⑧恋の歌を唄いましょう
今作のハラボー枠。個人的に原さんが歌う曲の中でもベスト5に絶対入る曲だ。前曲「あなただけを」の流れを汲んでいるのか、こちらも底抜けに明るいメロディとアレンジに対して、切ない失恋を歌っている。原由子版「あなただけを」とでも言うべきか。この楽曲を含め、恋愛モノの歌が多いのもこのアルバムの1つの特徴かもしれない。次作「さくら」や、前作(桑田ソロだが)「孤独の太陽」のどちらと比べても、男女の恋愛を歌った曲が多いように思う。40代に差し掛かり 「もう恋愛なんて柄じゃねぇ」歳な彼らが敢えて積極的に恋愛ソングを歌う姿勢に、やはり「青春への回顧」を感じてしまう。
⑨マリワナ伯爵
「マリワナ」とは「マリファナ」、つまり「大麻」の意。なんだけど、それ以上の歌詞の解釈が難しい。「麻薬にハマったミュージシャンを歌った曲」とか、「大麻を擬人化した歌詞」とか。色々調べても諸説あるみたい。語感で作ってる可能性もあるよなぁ。桑田佳祐のみぞ知る、って感じなのかもしれない。何にせよ、こういった曲がその後の「さくら」に繋がっている。ダークでファンキー。桑田さんの歌唱も気だるげで掠れた声でより雰囲気が出てる。
⑩愛無き愛児~Before The Storm~
怪しさ満点のバラード?この曲のジャンルが分からん。。。
歌詞も「胎児を揶揄している」だったり「死刑囚」だったり、こちらも諸説あるみたい。ただ、僕としては「堕ろされる胎児」という説がシックリきた。所謂「できちゃった婚」という言葉が本格的に流行しだしたのもこのアルバムの発売当時だ。勿論この曲は「できちゃった婚」がテーマではない。が、子供が出来て結婚する、という選択をする人がいれば、「子供を堕ろす」、つまり「中絶」という選択をする人も多いにいるだろう。実際に当時の中絶件数の統計を検索してみたが、現代に比べたら確かに数としては多かった。そういう物への警鐘、と思ってこの曲を聞いたらより重くのしかかる感覚になる。
⑪恋のジャック・ナイフ
ノリのいい情熱的なサウンド。イントロの左右に動く音が楽しい。歌詞も特に深い意味があるような感じではなく、語感とノリに委ねて曲作りしている感覚。
⑫Soul Bomber(21世紀の精神爆破魔)
精神を壊した男が酒やタバコ・クスリに溺れていく様を描いたロックナンバー。直近のライブツアー「おいしい葡萄の旅」でも披露された。

https://twitter.com/jjgmbpt/status/725671656404840448

松田弘の叩くドラムとギターリフが絡み合う様は圧巻。桑田の歌もまるで英語詞を歌ってるように聞こえてくる、「チャンポンロック」の様相。イントロの街の喧騒のようなBGMや、合間に挟まるSEがより歌詞の世界観をリアルにしている。

太陽は罪な奴

街の喧騒を抜け出し、海へ。

38thシングル。そして今作の先行シングルでもある。底抜けに明るいバンドサウンドでありサザンの十八番であるポップス。前曲までのダークな雰囲気をこの曲1発ではじき飛ばすような感覚。まさに夏そのものな1曲。ここまでド王道サザンソングなのにイマイチヒットしなかったのは「先行シングル」だったからだろうか。

⑭心を込めて花束を

両親への感謝を歌うウエディングソングとしても人気の1曲。トロンボーンやフルート、ストリングスが絡み合う、比較的バンド色が強いこのアルバムの中でも異色な楽曲。僕もいつか結婚する時にはこの曲を流したいなと思う。

 

バンドサウンドがここまで強くフューチャーされているサザンのアルバムって、今思い返せば「NUDE MAN」以来なのではないだろうか。まだまだ精神的には大学生バンドの延長線上(勿論セールスや活動はそんな次元にいるようなバンドではなかったが)にいた頃だと思う。そういう意味でも「原点回帰」であり「青春時代への回顧」なアルバムだと思う。このアルバムでバンドポップ的なサウンドをやり尽くした彼らは、より深いロックバンドなサウンド=ハードロックを演じることになる。それが「さくら」に繋がるのではないだろうか。

【CDレビュー】サザンの本質は"多面性"である【さくら サザンオールスターズ】 - Hello,CULTURE

「さくら」と「Young Love」は兄弟のようなアルバムだと思う。バンドサウンドを中心に、ポップスに舵を取った「Young Love」、同じくバンドサウンドでもゴリッゴリのハードロックを展開した「さくら」。相反するアルバムのようだが、根底にある「バンド」感はどちらにも健在だ。そして「ポップス」「ハードロック」というテーマがありながらも、それとは相反する曲がお互い随所に配置されているのも共通点だろう。そういった部分に注目しながら作品を聞くのもなかなか面白いのではないだろうか。

今年は「Young Love」発売から20年だそうだ。当時の僕は2歳だった。サザンのサの字も知らなきゃ、音楽にも興味は無い。それどころかアンパンマンだって見れていたか怪しい歳だと思う。そんな僕や、僕より若い人たちがこのアルバムを聞いて、Twitterでああでもないこうでもないと意見を交わしあったりしている。それだけでこのアルバムの「名盤」っぷりは明らかなのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

私の好きな音楽〜Base Ball Bear編〜

私の好きな音楽~サザンオールスターズ編~ - Hello,CULTURE

 
改めてBase Ball Bearと自分の出会い、そして何故僕は彼らの楽曲に魅力を感じ得るかを書き記そうと思う。超自分語りな記事です。ブログの元来の使い方だよなこれ。
 
2010年、僕は高校に入学した。中学時代は勉強が嫌いでマトモにやってこなかった、それでも学力的には何となく学年の真ん中の辺りにいた僕は市内の「公立普通科最後の砦」と揶揄されるような高校、言ってしまえば公立普通科の中では最低クラス、でも私立や市立と比べればレベルは上、といった極めて曖昧な立ち位置の高校に入学した。都会だと頭のいい子が私立に入学し、頭の悪いヤツが公立に入学するが、僕が住んでるようなドが付く田舎は私立より公立の方がレベルが上なのだ。
 
そんな高校に入学した僕は、2学期頃から毎日の日課としてラジオを聞き始める。「SCHOOL OF LOCK」だ。ご存知の方も沢山いるだろう。

SCHOOL OF LOCK! | 未来の鍵を握るラジオの中の学校

10代向け、ということもあってすっかり毎日の日課になった。当時ハマりだしていたPerfumeが毎週出演していたのもデカかったかもしれない。そしてこの番組を通じて邦楽ロック、というものにのめり込むことになる。RADWIMPSASIAN KUNG-FU GENERATIONBUMP OF CHICKENflumpoolチャットモンチー。当時(今も)中高生から圧倒的人気を誇っていたバンドの大半はこの番組にも出ていたし、この番組で初めて聞いた曲も沢山あった。

この番組の構成は生放送2時間の中に人気若手女優やアイドルが週替わりでコーナー担当を務める「Girls LOCKS」、そして日替わりでバンドやミュージシャンがコーナー担当を務める「Artists LOCKS」がそれぞれ10~20分間インサートされ、それとは別に毎日の生放送は「校長・教頭」(MC)が務める、というものだ。当時の校長は今なお現役のとーやま、そして教頭は辞めてしまったがやしろさんだった。

悩みや相談だったり、学校であった面白いことや、恋愛のこと。大人からしたらガキの他愛も無い話に聞こえることだったのかもしれないけど、「学校」という閉鎖された社会で過ごす学生にとって、こういう話題がラジオから流れてくるというのは励みになるというか。「自分と同じことで悩んでる人がこんなに沢山いるんだ」と、外の世界はまだまだ広くて、でも自分たちの社会とも繋がってるんだということを確認できる瞬間だった。

また、SCHOOL OF LOCKが主宰する10代限定のバンド大会、「閃光ライオット」もスゴく好きだった。「THE★米騒動」というバンドがめちゃくちゃ好きだった。10代が作ったとは思えないくらい作り込まれた音と歌詞の世界観。彼らの曲は、言葉数は少なくとも何かを弾けさせたい気持ちに溢れていた。同じくらいの年の人たちが自分の手で曲を作り上げ、プロが立つようなステージに立って人々を喜ばせている。同じ年なのに彼らがとても大人に見えた。

そうやって毎日聞いていく中で、当時火曜日の「Artists LOCKS」を担当していたバンドが余りにも面白いことに気が付く。他のバンドや、よもや芸人さんであるはずの校長教頭よりトーク面白いだろこれ、みたいな人たち。それがBase Ball Bearだった。

若手芸人張りに声をあげてつっこんだり、訳の分からないキャラもしっかり演じる堀之内さん。紅一点なのにおじさんおじさんと弄られてる関根さん。全然喋らないのにアドレス読みだけ毎回やらされる(むしろそれしか喋ってないだろみたいな回も度々)湯浅さん。多方面への知識が豊富&メンバーやリスナー弄りがメチャ上手い小出さん。どこを切り取っても笑いに溢れたコーナーだったし、ラジオ番組らしからぬコーナーも多様に展開していた。気付けば毎週火曜日の「Artists LOCKS」を楽しみにしている自分がいた。だが、当時はあくまでもラジオ番組の喋り手としての魅力しか感じておらず、彼らの楽曲に僕の気持ちはまだ向いていなかった。

翌年、2011年。チャットモンチーBase Ball Bearの合同で行われた「チャボベLOCKS」。当時気になっていた女子が文化祭でチャットの「シャングリラ」をバンドで演奏してたこともあって、チャットモンチーに少しずつ興味を持ち出していた時期だっただけに、この企画はすごく楽しんだ。今でもニコ動に落ちているチャボベLOCKSの音源を聞く時がある。Base Ball Bearチャットモンチーの両者はデビュー当時からの仲ということもあり、彼らの「楽屋トーク」的なトークや楽しげなセッション、世界観が混沌とした(!?)ラジオドラマなど。3ヵ月という僅かな期間ながら充実した楽しいコーナーだった。その頃、時を同じくして東日本大震災が発生。チャボベLOCKSラスト3回のうちの1回分は休止され、残りの2回も小出とチャットの福岡晃子が2人で出演し、「リスナーから届いたラブレターを曲にする」という企画となった。とてもしめやかに、何とかしてこの逆境を乗り越えようとする2人の気持ちを感じる回になっていた。同じ音源を今聞いても、どうしてもあの頃の日本に漂っていた"暗闇"を思い出してしまう。

6月末頃、Base Ball Bearはシングル「yoakemae」をリリース。これもまた同番組を通して聞いた僕は、「何故か分からないけど頭にこびりついて離れない感覚」だった。今でこそこの楽曲の大きな特徴である「生音で打ち込みっぽい音を出す」の凄みを理解出来るが、当時の僕にはこの曲がどうすごいのかを理解する頭のキャパシティは無かったように思う。だけど、「何か知らないけどこれ凄い!」と思ったことはよく覚えている。理屈じゃなかった。

 

そして夏休みに入った頃、新曲がラジオで解禁された。「short hair」だ。

この歌の虜になってしまった。「君だけのことを考えてしまう」という、恋愛における「恋煩い」的な感情をこれでもかとまっすぐ、痛いほどまっすぐに描かれている。サウンドも「yoakemae」とは一転したバンドらしい、まさに「ギターポップ」の様相。「夏」という僕の大好きな季節が舞台なのも好きになった要因だ。この年以来、僕が過ごす「夏」にとってこの曲が絶対的な存在となった。

 

時は過ぎ2013年。中学時代に増して勉強しなかった僕は志望校に落ち、滑り止めの大学に入学した。大学生になった僕はバイトを始めた。そこで稼いだお金でライブに行くようになった。秋になり、Base Ball Bearは文化祭ツアーを開催。僕は名古屋商科大学の公演に参加した。家から商科大まではそれなりに遠かったが(名古屋は名前だけで実際は日進市にあった)、「ついにあのBase Ball Bearを生で見れる」という興奮で胸がいっぱいだった。自分の通っている大学と比べて名商大はめちゃくちゃ大きく、「こういうところで大学生活したかったな」と辟易とした思い出もある。18:00の開演と共に、「short hair」のイントロがが名商大の体育館に響いた。その時の感動は今でも忘れない。自分がBase Ball Bear好きになったキッカケの一つであるこの曲で彼らの音を初めて生で体験した、というのは幸せなことだった。

 

彼らの音楽を語る上で外せないのが「普通」というフレーズだ。この世界にいつだって蔓延している「普通」。両親や学校の先生に「普通にしなさい」と怒鳴られ、クラスメイトからは「あいつは普通じゃない」という理由でいじめられる。でも、「普通」の絶対的な規定や条件は存在しない。「普通」について具体的に示された書物も、ホームページも、テレビ番組も、法律も。全部どこにも存在しない。この広い世界の中で、小さなコミュニティを形成した人々の「価値観」という曖昧で形の無いものから作り上げられた「普通」に人々は翻弄され続けている。

僕もその例外に漏れず、「普通」に悩まされた。特に小学生時代は酷かった。クラスメイトより体の成長も早く、考えや趣味嗜好もクラスメイトとはまるで違っていた僕は「いじめ」の対象だったように思う。今思えば、あんなのは世間で話題になっているような酷い「いじめ」ではなく「いじり」の延長線上のようなもんだった。とはいえ、小学生は残酷だった。当時の僕は本当に悩み傷ついていたように思う。本気で死を選ぼうと思ったことも幾度となくあった。そういう意味では僕も世間知らずだった。もっと辛い思いをしてる人がいくらでもいる、ということに気付いていなかった。「いじめ」のターゲットになる理由は「普通じゃないから」だとここで気が付いた。結局僕は、その後の中学校高校も、そして今も「普通」に悩まされている。サザンオールスターズが好き、と言えば「おっさんくせぇ」と罵られる。少ないお小遣いを叩いて大好きなミュージシャンのCDを買えば「金ないのにそんなことに使うなよ」と言われる。友人との交流に使っているTwitterアカウント(所謂リア垢、というやつ)で映画の感想を書けば「うるさい」と言われる。僕がしていることは彼らにとって普通じゃないのだ。彼らにとっては「サザンなんて古くせえ親父の音楽」だし、「CDなんて買うものじゃない」し、「Twitterで自分の感想なんか書くやつはどうかしてる」んだ。今でもなお、この「普通スパイラル」からは逃れられていない。そういった類の話をしてくる人たちに悪意がある訳ではない。本当に僕のことを考えて言ってくれている(と思いたい)。少なくとも小学生の頃のように「あいつのことバカにしてやろう」ではない。でも、僕に言わせたら彼らが「普通じゃない」。皆自分が「普通」だと思って、普通じゃない「他の人たち」に「普通になれ(=自分と一緒になれ)」とはやし立てる。「普通」が決まりのない曖昧な物だとも気が付かずに。

そんな「違和感」をBase Ball Bearは歌っていた。ボーカルの小出祐介も中学時代に酷いいじめを経験したからこそだろう。(程度は違うと思うけど)共通の経験をした彼が「普通とは何?」を歌い続けている。彼が作り上げた歌詞と音だからこそ僕はひどく彼らにシンパシーを感じてしまう。そこが僕にとっての彼らの魅力になっている。

 

散々このブロクでも綴って来た通り、Base Ball Bearは今大きな転換期を迎えている。かつてない大きな転換期だ。これを機にファンを辞める、という人もいたかもしれない。でも、それでも僕はずっと彼らのファンでい続けるだろう。彼らが「普通」をテーマに活動を続ける限り、活動を通して「普通」を証明し続ける限り、僕はずっと応援したいと思う。

 

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【ライブレビュー】初夏の風とロックの音に包み込まれた4月の終わり【Base Ball Bear 日比谷ノンフィクションⅤ】

 

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4月30日。GW2日目。ピークは外してるにしてもそれなりな混み方をしてる東海道新幹線に乗り僕は東京を目指した。「10th&15th Aniversary Base Ball Bear 日比谷ノンフィクションⅤ〜LIVE BY THE C2〜」を見るためだ。
Base Ball Bearのライブは1ヶ月前のツアー名古屋公演以来。だが、あのライブの素晴らしさとはまたひと味もふた味も違ったライブになる予感に溢れかえっていた。
 
今回の日比谷は、ツアーでサポートを請け負ってくれたフルカワユタカ氏に加え、元Number Girl田渕ひさ子氏、the telephones石毛輝氏、POLYSICSハヤシ氏という、邦ロック好き、音楽好きなら堪らない面々が揃った。特に元Number Girl田渕ひさ子氏。Base Ball Bearは元々Number Girlに憧れ、インディーズ盤をリリースした時はNumber Girlに酷似していると(主にネットで)所謂炎上をした(と、実際今回のライブで小出本人が語っていた)。そんなBase Ball Bearの演奏に田渕ひさ子が加わっている。こんな夢のような時間があるだろうか。本当に素晴らしい時間だった。
 
入場してまず思ったのは日比谷野音のライブ会場としての素晴らしさ。すり鉢状の見やすさや、いい塩梅の自然、ビル群が立ち並んでる中の非現実空間。ビル群は現実のメタファー、舞台を覆うように広がる自然は非現実のメタファー。現実と非現実の融合はまさに「日比谷ノンフィクション」。Base Ball Bearのために作られたような会場とすら思ってしまった。
 
18:00。定刻通り開演。いつもの垂れ幕は「日比谷ノンフィクション(ローマ数字)」だったけど、今回初めて「HIBIYA NONFICTION Ⅴ」と変更になっていた。その意義や理由を考える間もなく、ライブが始まる。いつも通り入場SEの「Making Plans for Nigel」が流れる中、堀、フルカワユタカ、小出、関根の順で入場。ちょっとした音出しの後、堀之内の4カウントで4人揃ったイントロが始まる。
①「それって、for 誰?」part.1


やはりこの曲からスタート。フルカワさん、名古屋公演以上に自分の色をはっきりと出したギタープレイをしている印象。お客さん全員がサビに合わせて腕を振る姿は圧巻。

 ②不思議な夜


やっぱりここかー。と。野外ってこともあるから夜聞きたかったけどなー。既に4人の演奏にアドレナリン出まくり。汗でへばりついた僕の髪も、初夏の風が剥がしていった気がした。

 ③曖してる 
曖してる

曖してる

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ここで「C2」キラートラック「曖してる」!!!やっぱりツアーとは違ったセトリになることを確信。「ベース関根史織!!」カッコよすぎかよ!!関根嬢のニューベースもブリッブリに鳴ってる。どこまでもファンク。ファンキー。既にライブのピークみたいな盛り上がり方。 

ここで改めてご挨拶。もちろん、あの騒動以来の東京ライブだったので名古屋公演と同じように説明を。そしてツアーに帯同してくださったフルカワユタカ氏へのお礼。フルカワ氏の「どうもロックスターです!!!!」は痺れたなぁ。そしてフルカワ氏は引っ込み、早速次のゲストギタリストへバトンタッチ。なんとここで田渕ひさ子氏。可愛い。上記したようなBase Ball BearNumber Girlの深い関係性を語った上で、「そんなBase Ball BearのライブにサポートとしてNumber Girlのギタリストが参加してくれている!」という悦びをこれでもかと素直に口にしていた小出。本当に嬉しかったんだろうなぁ。
「そんなNumber Girlの田渕さんの弾く音色をイメージして作った曲たちです」という言葉とともに次のブロックが始まる。
④こぼさないでShadow
こぼさないでShadow

こぼさないでShadow

  • provided courtesy of iTunes
ツアーでは最初の2公演だけ披露し、それ以外の公演では演奏されなかった曲。勿論僕が参加した名古屋公演でも披露されなかっただけに、嬉しかったなー。空も徐々に暗さを帯びてきて、まさに空から零れ落ちたような暗闇と共鳴するようにこの曲が日比谷の空に響いていた。「本当のサヨナラは想像しないってことだと 得意げに言ってた あなたを思い出してる」「現実はただ一筋の涙」湯浅将平の脱退を思い出さない訳にはいかなかった。
⑤short hair
田渕ひさ子の演奏でこういう曲が聴けることに大いなる意義がある。日比谷野音の特徴とも大いにマッチして、少し早めの夏を大いに疑似体験できるひとときだった。この曲で気がついたが、田渕さんのギタープレイは相当重めで厚みのある音だ。フルカワ氏、田渕氏、そして湯浅。同じ曲でもギタリストが変わっただけで全く違った印象を受ける。それぞれに持ち味がある。

「ギター 田渕ひさ子!!」の小出の一言で、イントロのあの音が響き渡る。ツアーには無かった楽曲。うねる様なギターの音像がこの曲をよりキラキラと、そして青春の初期衝動感をより強く感じさせる。どこまでも蒼い。どこまでも夏い。曲が終わると、「田渕ひさ子さんでしたー!!!かわいいー!!!」ここが田渕ゾーンだったのかと納得。しかしこいちゃん、もう普通にただのファン丸出しだったな...w まあねー。そりゃあそうなるよなーとか思ってるうちに田渕さん捌ける。しかしドラムのリズムは止まらない。

⑦ぼくらのfrai awei
ぼくらのfrai awei

ぼくらのfrai awei

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 「続いてのゲストギタリスト、ハヤシ君です!!」の紹介に合わせてPOLYSICSのハヤシ氏が入場。いつものツナギと バイザー姿。そのまま「ぼくらのfrai awei」!!!ここめっちゃテンション上がった。というかもうずっとクライマックス。気の抜ける、しかしちょっと胸が痛くなるような歌詞と、キャッチーなメロディに惹き込まれる。照明も今日1で鮮やか。飛び跳ねっぱなし。

⑧UNDER THE STAR LIGHT
UNDER THE STAR LIGHT

UNDER THE STAR LIGHT

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息付く間もなく「UNDER THE STAR LIGHT」へ!!まさに「UNDER THE STAR LIGHT 状態」の中で聞くこの曲はまた違った印象を受ける。ハヤシ氏はノリの良いギタープレイ&電子音っぽい音像って感じ。歯ギターまで披露。凄すぎ(笑)
ここでMC。ハヤシ氏への「TOISU!!」禁止令とか、レットマンの話とか、「ハヤシくんです!」連呼とか。ユルユルベボベMCはやっぱりいい。和む。
小出「次の曲はハヤシくんがあんまりやらないような曲です」
ハヤシ「あーそういうことなんだ。性格悪いねww」
という紹介で始まったのは
⑨どうしよう
どうしよう

どうしよう

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恋の独りよがり感を描いたグルービーな1曲。化学反応が起きてる感じ。この曲に限らず、ゲストギタリストの皆様は決して原曲通り弾いてる訳じゃなく、それぞれが曲を解釈して自分なりの色を付けている。それがこの化学反応感に繋がっているのではないだろうか。その特別感にどんどんどんどん惹き込まれる。
ここでハヤシ氏は終わり。最後に「TOISU!!!!」言ってって笑ったwwww。続いてthe telephonesから石毛輝氏。こちらも同じく「DISCO!!!!」禁止令。「言わないよ!デリケートな問題だもんね!!」と石毛氏。この時点で振り感が満載wwww
そして次に歌われたのは
⑩17歳
こちらもツアーでは未演奏だった楽曲。まさに「青春」ソング。これを野音で聴けるのは嬉しい。徐々に寒さを帯びてきた初夏の風と黄色と緑の照明が、より歌の世界観を鮮やかにしていてまさに「檸檬が弾けるよう」。
 ⑪changes
Base Ball Bear屈指のアンセム。お客さんみんなが人差し指を掲げる姿は壮観。メンバーが一人欠けた中、メンバー、そしてお客さんのそれぞれが「Base Ball Bearの未来」を人差指で夜空に向けて指し示していた。
⑫十字架You&I
十字架You and I

十字架You and I

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ダークでファンキー、そしてリズミカルな1曲。こちらもまた、ツアーでは演奏されなかった1曲。ベース、そしてギターがそれぞれ前奏で見せ場を作りつつ、石毛氏がギターを置き、跳び跳ねたりヒゲダンスをし、最後にはバク転も披露。「ダンス湯浅」を彷彿とさせるような演出に切なさも感じつつ、石毛氏のサービス精神の旺盛さに爆笑したり。再度ギターを持った石毛氏はなんとブリッジでギターを演奏。どんだけだよwww
最後は勿論「DISCO!!!!!」で締める。小出も「DISCO!!!!」コール。いいもの見れた。
ホーリーロンリーマウンテン
ホーリーロンリーマウンテン

ホーリーロンリーマウンテン

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ここでフルカワ氏再登場。一転して重くのしかかるようなエモ―ショナルな演奏が始まる。哲学的な歌詞とも合わさって、心を闇の中に引きずり込まれるような感覚。
⑭カシカ
カシカ

カシカ

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一転して所謂下北ロックなサウンド。しかしそこも一筋縄ではいかないBase Ball Bear。歌詞カードを見なければ分からない細工を施している。上手いよなぁ。。。
⑮真夏の条件
そして「真夏の条件」!!!!野音で聞く「真夏の条件」はやはり良い。もう野音最高。もうこうなるとただ音に体を委ねるだけ。
⑯LOVE MATHEMATICS
 
努涛、とも言えるような曲たちの連打にやられっぱなし。
曲が終わると、改めてツアーに帯同してくれたフルカワさんへの感謝。フルカワ氏も「Base Ball Bear、好きになっちゃったよ」と。ここ嬉しかったなぁ。どうであれ、湯浅の友達だったフルカワさんにとってこのツアーに帯同するということは辛いことだったはずだ。そんな彼が「好きになった」と言ってくれるだけで、嬉しくなってしまう。
「若干キツい言い方かもしれないけど、今のBase Ball Bearは側から見ると、片腕を失ったバンドだと思うんです」と言及したのち「メンバーが両手両足だとしたら、Base Ball Bearというものは頭なんです。『片腕失って本体のBase Ball Bearどうする?』っていうときに、『作りたいこともやりたいこともあるし、ここでやめるわけにはいかないな』っていうのが3人の共通の意識で。今までは絶対に4人だけで!っていう強い気持ちがあったんですけど、これからはカメレオンのようにやっていきたい。でも僕らの上に乗っている頭は、あくまでもロックバンドですので! これからもよろしくお願いします」(ナタリーより引用 トイス!DISCO!ギタリスト4人が彩ったベボベ決意の日比谷野音公演 - 音楽ナタリー )

片腕を失った状態、というのはかなり的を得た表現だと思う。「ギターロックを4人で演奏する」ということをずっと不文律として続けてきたバンドからギタリストが脱退する、ということが指す意味は想像に容易い。それでも、片腕に義手を嵌めながらこのツアー、そして日比谷野音公演を完遂した。そこには転んでも屈しない精神だったり、「それでも何かあるような気がしてる」が故のことなんじゃないだろうか。「まだまだ何かある、まだやらなきゃいけないことがある」という強い気持ちがこのツアーや日比谷公演を中止や延期にする、という選択肢ではなく、完走する、絶対に終わらせる、という選択肢を彼らが選んだ動機ではないだろうか。

⑰HUMAN

HUMAN

HUMAN

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そんなMCを挟んで、本編最後の曲へ。丁寧に丁寧に演奏されたこの曲は、強い現実味を帯びて演奏された。僕たちもこの曲に出てくる1人でしかない。「人間味」なんてひどくつまらなく、鬱蒼なもので、でもこの人間味と一生僕たちは付き合っていかなければならない。現実味と付き合っていくことこそが人間味なのかもしれない。

この曲で印象的だったのが、照明の光線が「C」や「C2」などのジャケットに使われた「電波塔」モチーフのようになっていたところ。

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勿論、まんまこれ、という訳ではなかったが、それが何か切なくて、でも感動してしまった。演奏後、舞台袖にメンバーは捌けていった。

Enc.

アンコールはツアーと同じく3人での演奏。舞台に上がってきた小出は

「今回湯浅の脱退があったけど、ミュージシャンの皆さんやお客さんがこんなにもBase Ball Bearを心配してくれるんだ。考えてくれる人がいっぱいいるんだっていうことに、本当に救われました」(ナタリーより)

と感謝を述べ、アルバムやツアーも行う宣言をした。

⑱「それって、for 誰?」part.2

3人での演奏。勿論音源に比べたら物足りなさは感じるが、それ以上に3人の気迫を強く感じる1曲だった。

「それって、for 誰?」part.2

「それって、for 誰?」part.2

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⑲The End

The End

The End

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「終わりは そう終わりじゃない」。ベボベ第2章の始まりを予感させる幕開けの様な歌。まだまだ彼らのバンド活動は終わらない。

 今回のライブのハイライトは上記したようにやはりゲストギタリストの皆さんではないだろうか。Base Ball Bearのピンチを支えるためにこれだけの有名どころが集まった、というところにファンとしては嬉しさしかないし、こんな機会が無ければ見れなかったであろうギタリストを自分の好きなバンドの曲の演奏で聞くことが出来る。こんなに貴重な機会はないだろう。telephonesやPOLYSICSは、「名前は知ってるけどなかなか聞く機会が無かった」バンドだったのでこれを機に聞こうかなと思う。

そして私事で恐縮だが、このライブの後、田渕ひさ子さんにTwitterでリプを送ってみたところ、なんと返信をいただいた。

こんなに嬉しいことはない。これを糧にまだまだ頑張って行きたい。

 

このライブを最後にBase Ball Bearは新しいステージに突入していくと思う。今回のライブはそのステージに突入する直前の「今のBase Ball Bearでの最後のステージ」だったのではないだろうか。それを現場で体験できたというだけで感無量だ。

 Base Ball Bearの音を日比谷野音で体験できたのもうれしい。そりゃあ今回のライブは今までの「日比谷ノンフィクション」シリーズとは全く違う構造だし趣旨だった。それでも「short hair」や「PERFECT BLUE」、「17才」のような歌たちをあの日比谷野音という独特の空間で聴けたということにめちゃくちゃ意義があったんじゃないかと思う。すごく良い雰囲気のライブ会場だった。特にベボベとの親和性は半端じゃないなと思う。是非「日比谷ノンフィションⅥ」も見に行けたらなと思う。

 ツアー名古屋公演のレポも併せてどうぞ。

fujimon-sas.hatenadiary.jp

C2(初回限定盤)

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