【音楽コラム】そろそろ桑田佳祐が本当に反日なのかそうでないのかハッキリさせよう
2014年末の年越しライブの演出・及び紅白歌合戦への出場に端を発した「サザン桑田不敬騒動」。メディアが大きく取り上げなかったこともあり、ネットで話だけが大きくなってしまった。今でも「桑田佳祐」と検索をかけるだけで「不敬」「反日」というワードが目に入る。それを擁護するようなページも数多くあるのだが、「反日だ!」とする記事も「いいや彼は何も悪い事をしていない!」とする記事も、どちらも根拠がめちゃくちゃで、感情論が過ぎる、といった印象を今でも受ける。そしてこの騒動を取り上げた著名人も「事実」についてはまるで二の次で、「話を聞き齧った」程度で持論を展開していたような印象だ。今更蒸し返すようではあるが、本当に桑田佳祐は反日なのか?そうでないのか?この騒動が勃発していた当時は、僕もファンのひとりとして感情的になっていた節があった。が、1年という時を経て「ファン」「愛国」「日本人」といった感情は1度捨て、事実を僕なりに客観的に追い、誰もが目を背けていたこの騒動の真実を白日の下に晒らしてやろうと思う。
さて、話はいよいよ核心に触れるのではないだろうか。上記した「サザン桑田不敬騒動」で散々引き合いに出された2013年の「ピースとハイライト」だ。当時からその歌詞やタイトルについて意見が噴出していたが、14年末の騒動を機に、演出や歌詞を含め、まさに「曲解」とも言えるような解釈をする意見が増えた。この曲は「希望の種を植えていこうよ 地上に愛を育てようよ」「絵空事かな?御伽噺かな?互いの幸せ 願うことなど」「いろんな事情があるけどさ 知ろうよ互いのイイところ!」という歌詞にある通り「お互いのいいところを尊重し、意見を認め合おうよ!」という歌詞ではないのだろうか。そりゃ歌詞にもある通り「御伽噺」だと言ってしまえばそれまでだが、希望や平和を願う事すらも否定されてしまうのはあまりにも辛い。1番この曲で問題とされている歌詞は「都合のいい大義名分で 争いを仕掛けて 裸の王様が牛耳る世は...Insane」という歌詞だろう。この歌詞を「安倍首相を批判した歌詞」「集団的自衛権を揶揄した歌詞」という解釈をしている人が多かったと思う。だが、「裸の王様」という歌詞で連想されるのは何も安倍首相だけではない。北朝鮮の金日成なんかの方がよっぽど「裸の王様」らしいし、今となってはアメリカ大統領選のトランプ候補なんかの方が安倍首相に比べてよっぽど「裸の王様」らしいと言えると思う。そういう色んな人々全部引っ括めて「裸の王様」だと揶揄しているのだ。「反日」でも「親韓」でも何でもない。「地球という国」そのものの未来を憂いている歌詞、というのが適切なのではないだろうか。「教科書は現代史をやる前に時間切れ」というのも割と事実に則ってる風に感じる。戦中〜戦後についてガッツリと習った記憶はあまり無いし、満州を占領したり、太平洋戦争を日本が仕掛けたという記述は少なく、広島長崎に原爆が投下された、という部分について教科書では大きく論じられていたように思う。是非手元に中学校の歴史の教科書がある方は確認してほしい。勿論、広島長崎への原爆投下は絶対に許される事ではないし、語り継がなくてはいけない事だろう。しかし、それと同時に日本が行ってきた事も見直す必要がある。近隣諸国との関わりを深めるためには戦中以降の歴史をより深く学ぶ必要があるのは間違いない。それなのに肝心のその部分が抜け落ちている。相手国と自国の認識の差、とかいう以前の問題なのではないだろうか。
「ピースとハイライト」というタイトルに関しても、「平和と極右」という解釈をしている意見を見かけた。僕個人の見解を言うのならば、「右も左も極端に振れてしまったら本当の意味での平和は望めない」。しかし、あくまで僕の意見ではなく客観的な視点に立つとするならば「タバコと平和をかけてるだけ。ハイライトは桑田本人が吸っていた煙草の銘柄だろう」だ。
尻ポケットに関しては「段取りを間違えた」とのことだ。当日参加された方のレポートを拝見したが、歌詞を表示するディスプレイとは別に、MC等の時間を表示するディスプレイまで配置されていたそうだ。「段取りを間違えた」のが事実かどうかは桑田佳祐にしか分からないが、少なくとも「段取りを間違えた」という説明にある程度の説得力はあるのではないだろうか。これに関して現状あるだけの情報で言える事とすれば、「ただでさえ時間に追われている紅白で、ライブの途中から中継なんて滅多にやるもんじゃない」くらいのものだろうか。実際それについてはNHK側も反省しているのだろうか、翌年の紅白ではBUMP OF CHICKENや福山雅治が中継での出場となったが、どちらもライブのど真ん中ではなくライブスタートすぐの2曲目だったり、本編が始まる前だったり、とにかくライブ本編を邪魔しないような時間設定になっていた。とにかくこれに関しても運営側・桑田側の落ち度であるというのは事実だろう。ちなみに余談ではあるが、この騒動に対してビートたけしが新聞のコラムで「ああいうパフォーマンスをするなら偽物にしないといけない」と語ったそうだ。が、これは桑田佳祐がラジオで謝罪をした後。たけしさんと桑田さんは互いにその才能を認め合っており、これもその延長線みたいなもんなのだろうが、にしたってたけしさんともあろう方でも又聞きでこういう批判をしてしまうのかとちょっとガッカリした。
③チョビ髭がヒトラーを揶揄しているんじゃないか問題
これに関してはもう屁理屈としか…。勿論、「ピースとハイライト」というテーマが社会派な曲を歌う以上はある程度気を使うべきだったかもしれないが、いくらなんでもチョビ髭からヒトラー連想するとは運営側や桑田も想像できないだろう。これ、裏を返せば右寄りの人ですらなんとなく安部をヒトラーと照らし合わせている節があることの証左になってしまっているよな。普通安部をヒトラーだ!なんていわねぇって。
以上が「ひつじだよ!全員集合!!」で問題として挙げられた桑田のパフォーマンスだ。ここだけ切り取ってしまえば確かに桑田佳祐・運営サイドにも一定の落ち度があったことは事実だろう。そこは桑田も、アミューズも反省しなければならない点であり、大いに猛省していただきたいところである。
だがしかし、これだけで「反日」とするのは聊か飛躍しすぎている、というのもまた事実だろう。まして「ピースとハイライト」を始めとする楽曲の「都合のいい解釈」、平和を祈るライブ演出に対する的を外れた批判など、どう考えても「反日に仕立てあげたい」がために無理やり文句を付けている様だ。思い返せば、東日本大震災の直後、真っ先に音楽を媒体とした規模の大きい支援活動を始めたのは桑田佳祐だった。「チーム・アミューズ!!」というプロジェクトを立ち上げ、当時暗闇の様な日本を率先して元気づけた。実際にこのプロジェクトで集まった金額は全て赤十字へ募金された。その額なんと2億円だ。
この企画に対しても否定的な意見を散見した。3月11日に発生した地震のチャリティソングを4月20日には配信開始している「急ごしらえ」の作品に対して「クオリティが低い」という意見は流石に馬鹿げていると思うが、例えば「うすら寒い笑いは必要ない」などと思う方も一定数いるだろう。しかし、当時の日本に足りなかったのはやはり「笑い」だと僕は感じるし、この企画で重要なのは「お金を集める事」に他ならない。チャリティーの本質は結局「金」だろう。いや、言葉にしたら悪く聞こえるが、被災地に一番必要なのは物資でありお金だ。それは間違いない。
結局、この「チーム・アミューズ!!」にしても、「桑田佳祐反日論争」にしても「快」か「不快」かでしか物事を判別できない人間の本質がまざまざと出ているように感じる。自分の感情も大事だが、一度俯瞰して物事を見つめた時に「正しい」か「正しくないか」、もっと言えば「相手の気持ちに立つ」「それに関係する人の立場に立つ」ということが何より必要なことなのではないのだろうか。現代の日本や世界にはそれが足りていない気がしてならないのだ。
話を戻すと、震災後真っ先に宮城でライブを開催したのも他でもない桑田佳祐だ。上記した通り、桑田は半年後の宮城でライブを開催した。遺体安置所として使われていた会場だった。ライブが始まってすぐに犠牲者への黙祷を捧げ、ライブの終わりには日の丸を掲げた。北朝鮮の拉致問題に関する歌詞を幾度となく書いている(直近で言えばMissing Personsなど)。自民党政権だけでなく民主党政権を批判するような楽曲も作っている(現代人諸君!!など)。ライブやラジオで積極的に君が代を演奏している。東日本大震災以降、自信最大のヒットナンバーであるはずの「TSUNAMI」を被災者感情に配慮して演奏していない。など、客観的事実としても桑田佳祐はこれだけの「日本人らしい」振る舞いをしているし、そうじゃなくても日本にこれだけの作品を残し続けてきた人なのだ。韓国ではなく、日本に。これだけのことをしている人に「反日」や、まして「在日」などというフレーズを投げかけるなんて僕なら出来ない。
改めて結論を出そう。彼は「反日」でも「在日」でもない。日本への愛情を持ち、それ故に時には批判的な歌を歌うこともある、至極まっとうな日本人だ。彼のサービス精神の旺盛さ故に、たまに失敗してしまうこともあるが、そこに他意は全く無い。
サザンオールスターズ - 蛍 「SUPER SUMMER LIVE 2013 "灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!" 胸熱完全版」
如何だっただろうか。あの騒動から1年以上が経ち、騒動もすっかり鎮静化した今、「なんで今さらそれに触れたの?忘れてたのに馬鹿なの?」とお怒りのサザンファンの方もいらっしゃることだろう。イヤなことを思い出させてしまって本当に申し訳ない。しかし、1年という時間が経ったからこそ、見つめ返せる事があったような気がする。
最初に「客観的に見つめ返す」などとのたまっていたが、実際客観視出来ていたか、なんて自分じゃよくわからない。多分できてないと思う。それでも、自分なりに客観的に理詰めでこの騒動を纏めたつもりである。最後ばかりは僕の主観的な話になってしまうが、騒動当時も、そして今でも、きっとこの先も、「桑田佳祐は僕の憧れであり、大好きな日本人ミュージシャン」なのはずっと変わらない。
ー追記ー
この記事をTwitterにアップしたところ、大きな反響をいただきました。ありがとうございました。仲良くしていただいてるアカウントの方と改めてこの話題について論じていた所、自分もさらに深い着地点を見つけたのでここに改めて記させていただきます。
結局、今回取り上げた騒動の最終的な着地点って「どこまでが右でどこまでが左なのか」、つまり「右と左の線引き」になってしまうような気がするんです。僕は右だと思うことも、違う人からしたら左に見える。その逆もまた然り。最終的に「価値観のズレ」でしか無いような気がします。勿論、明らかにそれは右だろう、左だろう、ということはあると思います。が、恐らく大半の日本人はその「極地」には行き着いておらず、中間の微妙なバランスでどちらかといえばこちら、どちらかといえばあちら、というのが実は本質なのではないでしょうか。右寄りの人は勿論日本の事を考えてる。でも左寄りの人も実は批判的な視点を持つことで日本をより良くしたいと考えているんじゃないだろうか。じゃあその「左寄り」の本質って実は「右寄り」なんじゃないの?とか、自国に対して批判的な視点を持たない「右寄り」の人って実は日本を壊している、つまり「左寄り」じゃないの?とか。その微妙な価値観の行き違いが今回のような騒動だけでなく、今まさに巻き起こっている「ネトウヨ」「ブサヨ」論争の大きな要因なのではないだろうか。
とかね。いよいよこうなってくると哲学的な話になるし、潜在的な敵を増やしかねないので止めます。ただひとつ言いたいのは、僕も含めた世界中の人たちは「自分の価値観や、同じような価値観を持ち合わせたコミュニティだけで物事を計るのではなく、より広い視点で物事を俯瞰して見る必要がある」のではないでしょうか。