星野源『Gen Hoshino’s 10th Anniversary Concert “Gratitude”』に見た、社会・生活と共に生きるポップソングとその在り方

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7月12日に開催された星野源の有料配信ライブ『Gen Hoshino’s 10th Anniversary Concert “Gratitude”』を見た。

コロナ禍の地獄のような社会に対しても音楽活動を続けてきたポップシンガー、と聞いて沢山の人が思い浮かべるのはきっと星野源だろう。一連の「うちで踊ろう」を取り巻く活動は、コロナ禍によって鳴り止まざるを得なかった音楽を、コロナ禍の中で如何に、それもオーディエンスと共に鳴らすか、という点において非常に発明的であったと共に、沢山の音楽ファンだけでなく音楽関係者をも勇気づけた。その一方で、思ってもみない「使われ方」をしてしまった曲であった。星野源自身にとってもこの数ヶ月はきっと、悩み、苦しみ、様々な考えが巡った日々だったように思う。  

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そんな中でソロデビュー10周年を迎えた事を記念し、デビュー初のライブ会場となった渋谷 CLUB QUATTROにて開催された有料配信ライブ。何重もの思いを越えた先に辿り着いた始まりの場所から、星野源は改めて歌を届けた。

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「ウイルス」という言葉がリリース当時と様変わりした世界で歌う「Pop Virus」からライブはスタートする。

音の中で 君を愛してる

霧の中で 朽ち果てても彷徨う

闇の中で 君を愛してる

刻む 一拍の永遠を

2020年の世界は、思ってたよりもずっと暗く、先が見えない日々が続いている。そんな中でも大切な人や大切なモノへの愛は普遍であり永遠だろう。僕たちはそんな感情を日々のあちこちに刻みながら、この世界で生き永らえている。そんな我々が当たり前にこなす生活の一片を、星野源が丁寧な言葉とギターで紡ぐ。

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2曲目に演奏されたのは「地獄でなぜ悪い」。

無駄だ ここは元から楽しい地獄だ

生まれ落ちたときから 出口はないんだ

コロナ禍の地獄のような社会、とはじめに記したが、それはコロナによって社会の暗部が炙り出されたに過ぎず、僕らが過ごすこの世界はいつだって地獄のような側面を併せ持っている。それに否応なく気付かざるを得なかったこの数ヶ月を経て、このフレーズの聞こえ方も真に迫るような迫力があった。

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今回のライブはアルバム「POP VIRUS」に収録されているONKIO HAUS Studioでのライブや、「POP VIRUS」発売後のドームツアーライブで中盤にセカンドステージで披露された、スタジオセッション的演奏を彷彿とさせる体制で進んだ。肩肘を張らない、普段通りで久しぶりのセッション。メンバー1人1人が演奏することの歓びを感じているのがひしひしと伝わるライブだったことが印象深い。

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このタイミングで見るポップスのライブは、たとえどんなミュージシャンであろうと今までと同じ感覚では(少なくとも僕は)聞けない。それは我々も、ミュージシャンも、平等にこの辛く長く先の見えない半年を過ごしてきたからだ。この半年で生まれた視点、得てきた経験。それらを僕たちは否応なく歌に重ねながら演奏を聴くし、歌っている側も恐らくはきっとこの半年のことを意識しながらセットリストを決めているのではないか。

星野源も例に漏れず、むしろきっと積極的に、この半年を彷彿とさせる曲を選曲していたように思う。

触れ合うと言葉より

君のことを知れる気がした

「肌」

例えばこの曲も、今の世界に当てはめてみると聞き手をこれまでとは違った気持ちに誘う。ソーシャルディスタンスが叫ばれ、触れ合うことは愚か、会って話をすることとすらも出来なくなった今の世界。だからこそ、僕たちは話し合うこと、触れ合うことで生まれる人と人との相互理解の大切さを身に染みて感じた筈だ。それ確かめ合うように、星野源は淑やかに我々へ歌い掛けてくる。

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あの大ヒット曲「恋」でさえも、コロナを経た事でこれまでとは違った響きを生み出す。

いつか見えなくなるもの

それは側にいること

いつも思い出して

君の中にあるもの

距離の中にある鼓動

「恋」星野源

僕たちは時に嫌になるほど、時にその事を忘れてしまうほど、他人の側で過ごしてきた。そしてその積み重ねで自分の大切な人や場所を作り続けてきた。そんな当たり前が変わってしまった今、大切な人のことも、大切な場所のことも忘れてしまいそうになる。星野源は大切な人のことも、大切な場所の事も忘れないで、と歌う。距離があっても、生きる人と人、生きる場所と場所の間の「距離」にも同じようにきっと生命が宿る、と。

そしてライブ中盤で披露された「折り合い」。コロナ禍の中で制作された新曲であり、ラヴソングだ。

こんな時さえも 誕生日は来て

祝うだろう 日々は続けと

 

愛してるよ君を

探してるよいつも

他人のようで違う

2人の折り合いを

「折り合い」星野源

「こんな時さえも 誕生日は来て」という一節は、この曲が生まれるきっかけとなったバナナマン日村へのバースデーソングの事を指してるのだろうが、このライブは星野自身のデビュー記念で開催されたということもあり、この日は星野自身に投影してしまう。「祝うだろう 日々は続けと」というフレーズには、こんな中でも丁寧な暮らしを紡いでいけという鼓舞のようでもあり、この先もずっと毎年繰り返しやってくる誕生日を祝い続けれるようにという祈りのようでもある。「折り合い」という言葉には、愛し合う2人がお互いの妥協点を探り合いながら永く愛し続ける様、ひいては世界中の一人ひとりがそれぞれに怒りや悲しみに折り合いをつけながら過ごしてきた、この半年をやはり想起させる。

ライブ終盤で歌われたのは「Hello Song」。

僕たちは骸を越えてきた

いつかあの日を超える未来

Hello Hello

笑顔で会いましょう

「Hello Song」星野源

骸を超えてきたという言葉に思わずギョッとしてしまうが、思えばこのフレーズの通り、僕たちは幾多もの犠牲の上に生きている。コロナだけではない。僕達が暮らす地面の下に故人が眠っているように、沢山の先人達が今の我々の歩む道を作りあげている。おそらく、きっといつかはコロナ以前のように、何の気にも留めずに人と人が出会い、仕切り無しで笑顔で会話できるようになるだろう。ライブもできるようになるだろう。その遥か先の未来にはしかし、幾多もの犠牲が生まれているはずだ。コロナが原因で亡くなる人、コロナに感染して辛い闘病をした人、コロナによる経済不況でこれまでの生活が難しくなった人、大切な人や大切な場所を犠牲にした人。すべてひっくるめて沢山の「犠牲」だ。その犠牲の上に、我々が望む「安寧とした生活」があるのだろう。そんなことに気付かせてくれる歌唱だった。

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星野源は自身の活動で一貫して、「生活」を描き出してきた。ポップソングは常に、生活と隣り合わせだ。日常の在り様を切り取り、歌に乗せる。大衆音楽家とは常に、そうして歌を紡いできた。星野源が現在の日本におけるポップアイコンである理由は、彼の歌が我々の生活を、時にエグく、時に美しく、また時にその両方を併せ持ちながら、描き出しているからだろう。

思えばこの半年間は「新しい生活様式」という言葉が飛び出す程に、「生活」というものの考え方や在り方が変動した日々であった。そんな中でも変わらなかったことは、生活という言葉の指す通り、「生きて、活動すること」だと思う。

僕たちは生きるために、活きて動き続けるために、大切な人や場所を大切にし続けるために、必死に感染拡大を抑えようとして、時には為政家に声を上げて、そうやってこの半年を過ごしてきた。それも立派な「生きて、活動すること」だ。生活だ。感染拡大の目処が立つまではそうやって「生活」し続けなければならない。星野源は今回のライブで、自身が一貫して歌い続けてきた「生活」というテーマを通して「そんな生活を続けること」を我々に示したのかもしれない。

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またいつか、笑顔で星野源のライブに行けることを祈って。

www.youtube.com

※記事に掲載した写真はすべて、星野源のオフィシャルSNSからの引用です