King Gnu「CEREMONY」はこれからのJ-POPの在り方を決定付ける
「白日」の大ヒットから紅白出場に至るまで、2019年を圧倒的な速度で駆け抜けてきたKing Gnu。彼らの一挙手一投足に対する世間からの圧倒的な注目度はKing Gnuの音楽への期待という彼らに対するハードルの現れでもあったが、「CEREMONY」はそのハードルをたやすく飛び越えた音楽作品だった。
King Gnuは常に「J-POP」を歌い、奏でることをテーマとして掲げてきたバンドだ。そしてそんな彼らによる「新しいJ-POPの在り方」は今作「CEREMONY」でも発明されていた。ミクスチャー・バンドである彼らの作る音楽のどこが「J-POP」なのか。そして「新しいJ-POPの在り方」とはなんなのか。
ここまでのKing Gnu
1stアルバム「Tokyo Rendez-Vous」は「みんなが歌いたくなるもの」として制作したとバンドメンバーは語っている。確かに同作には「VinyI」や「あなたは蜃気楼」など、日本人が親しみやすい日本語詞を基調とした、思わず口ずさみたくなるような歌メロの楽曲が多く収録されている。
そして昨年のKing Gnuブレイク前夜にリリースされたアルバム「Sympa」。
「Sympa」リリース時のインタビューにてKing Gnuのトラックメイカーである常田はJ-POPの名曲を聞き返したと語った。サザンオールスターズ、Mr.Children、宇多田ヒカルに椎名林檎、そしてRADWIMPS。日本ポップカルチャーの重鎮である彼らの楽曲を聴き込んで生まれたのが「The hole」だったという。
しとやかなピアノバラードは上記したポップバンド・シンガー達のエッセンスも確かに孕んでいる。美しくも儚く響く井口の歌声は、その直後にリリースされる「白日」の萌芽だった。
そしてSympa(共鳴者)を増やした王は、集めた共鳴者達と共に儀式を始めた。
「J-POP」が変わった?
J-POPと言えばポジティヴで、ドラマチックで、清く、美しいモノだとされてきた。それはJ-POPが生まれた90年代がバブル真っただ中で、そんな時代性が反映されるポップスが故に活気に溢れたヴァイタリティの高いモノが「ベース」であり「オリジネイター」になってしまったからだ。故に「ポップスとはこうあるべき」という漠然としたイメージが、作り手にも、我々聞き手にも無意識のうちに刷り込まれていたのではないだろうか。歌詞においても、サウンドにおいても常に「ポップスの最適解」ばかりが追われ、消費されていたように思う。最適解を追うことに執着し、「新しい発明をする」所まで行ききっていなかった。
だからこそ、10年代前半はロックフェスによってロックが台頭し、アイドルグループが沢山生まれ、いわゆる純粋無垢なポップスに元気はなかった。そのポップスに纏わる潮目が変わったのが星野源登場であり、一昨年リリースされた「POP VIRUS」だ。
ポップスが本来持っている「無限の可能性」を引き出したこの作品がヒットしたことは、言わばJ-POPの土壌そのものの変化を生み出した。
星野源のブレイクと同時期のSuchmosの登場や、米津玄師、髭男のヒットはその土壌無しには在り得なかっただろう。星野源が土壌を変えて、Suchmosが固め、その後出てきた様々なミュージシャンがその土に種を撒き、King Gnuが花を咲かせたと言って良い。平成の始まりと共に生まれた「J-POP」は、平成の終わりと共に体質そのものが変化する。「ネオ・ジャパニーズ・ポップス」の幕開けである。
King Gnuは現代を歌っている
King Gnuの最もJ-POPらしい部分と言えば、現代と向き合った楽曲であるというところだ。例えば、「Slumberland」において彼らはこんな風に社会をシニカルに切り取り、警鐘を鳴らす。
正義もヘッタクレもない
悪事も結託すりゃバレないな
甘い蜜だけを吸っていたい
薄っぺらいピエロはあっちへ行きな
"Wake up people in Tokyo Daydream"
Open your eyes, open eyes wide.
(目を覚ませ、目を凝らせ)
Rock'n roller sing only 'bout love and life.
(所詮ロックンローラーは愛と人生しか歌えないんだ)
隠蔽を続ける政府、その長を「薄っぺらいピエロ」と告発し、それを見てみぬ振りする我々聞き手を彼らは自身の目で見極めろと扇動する。
そんな彼らの社会に対する視点は今作「CEREMONY」でも健在だ。例えば「どろん」にはこんな一節がある。
人生にガードレールは無いよな
手元が狂ったらコースアウト
真っ逆さま落ちていったら
すぐにバケモノ扱いだ
其処を退け、 其処を退け
今じゃ正義か悪か
それどころじゃないんだ
一度のあやまちすら認められない、炎上なんてしようモノならネットに永久的に名前が『正義の名の元に』残り続ける。何が正義?何が悪?そんな風に彼らは社会に警鐘を鳴らしている。
思えば、彼らのブレイクを決定的なモノにした「白日」もこんな歌詞だった。
時には誰かを
知らず知らずのうちに
傷つけてしまったり
失ったりして初めて
犯した罪を知る
戻れないよ、昔のようには
煙めいて見えたとしても
明日へと歩き出さなきゃ
雪が降り頻ろうとも
自身の犯した罪を「真っ新」「一から」と、J-POPではポジティヴに使われていたはずの言葉を使いながら悔いる歌詞だ。ポップスに成りえないようなテーマをポップスの常套句で表現するこの曲はやはり発明であると共に、ヒットは必然だったように思う。
代わり映えしない日常の片隅で
無邪気に笑っていられたらいいよな
無意味な旅を続けようか
ワン·バイ·ワン
一歩ずつでいいさ
僕も、多分King Gnuのメンバーも「ゆとり世代」と呼ばれる世代に属する人間だ。大人たちからやれ夢が無いだなんだと言われてきた世代だ。だが、僕はそれもそのはずだと思っていて、僕らの世代は景気が良かったとされる時代を経験していないのだ。家を建てる、結婚する、そんなことが当たり前だった時代とは大きく違う日々を過ごしている。そんな中で「日常を穏やかに過ごしたい」と思うことは自然なことだろう。
歓声も罵声も
呑み込んで
この時代に飛び乗って
今夜愚かな杭となって
過ちを恐れないで
命揺らせ 命揺らせ
「飛行艇」でKing Gnuはそんな代わり映えしない日々を穏やかに過ごしたい僕らの感覚を肯定した上で、そんな夢も希望も無い時代を見極め、飛び乗れと、現代の音楽シーンではあまり鳴っていないような太さのあるサウンドで奮い起こす。それは彼ら自身がそういう時代を生きてきたからこそであり、だからこそこの時代にフィットした楽曲を彼らは作っているのだ。
そんなKing Gnu流、2020年流のJ-POPが頂点を迎える「CEREMONY」の白眉は「壇上」だ。
本当に泣きたい時に限って
誰も気づいちゃくれないよな
人知れず涙を流す日もある
ここまで僕らを奮い立たせてきた彼らが最後に見せるのは彼ら自身の弱さであり、現代を生きる僕達の心情吐露だ。簡単に誰かと繋がれる現代において、自分の表面的な喜怒哀楽を世に放つこと、それに共感したりされたりすることは簡単になった。しかしそれは同時に、本当の感情や想いを伝えることのハードルが高くなったこととも同義と言えるだろう。ピアノの旋律と弦のハーモニーはこの世のモノとは思えない程の美しさを醸し出すバラードは、彼らが歌うことで「CEREMONY」に収録された他のどんな曲よりも衝撃的で、琴線に触れてしまう。
「ネオ・ジャパニーズ・ポップス」
今回のKing Gnuのアルバムは「ネオ・ジャパニーズ·ポップス」の最適解。コンセプトアルバムであったり、強いビート感であったり、ハイトーンと低めという相反する声であったりという、ポップスらしからぬ要素をいくつも抱えていながらも、彼らが新時代のJ-POPとしてシーンの真ん中で鳴り続けることが出来たのは、もちろんメロディの強固さであったり、これまでのポップスを彼らがきちんと踏まえているからでもあるのだが。やはり一番は彼らが時代を見据えた楽曲を作り続けたことが理由だ。キレイゴトじゃ無い、時代の中で生き続けるすべての人々のありのままを肯定し、共感し、自分の弱さを曝け出し、その上で背中を押す。現代人が求めているポップスは翼を広げることでも、これまでのポップスをなぞる事でもない。聞き手ひとりひとりのありのままを認めることであり、その裏付けとしての独自性だ。
King Gnuの音楽を重いテーマを背負った、分かりにくい音楽だと思っている人も一定数いるだろうが、誰かを鼓舞したり、悲しんだり、大切な人との別離を歌っている点において極めてポップスど真ん中な音楽を作っている。サザンオールスターズがデビュー時に「何を言っているのか分からない」「日本語を大切にしていない」と揶揄されていたように、発明はどんな時も最初は相手にされなかったりする。しかし、サザンオールスターズがそうだったように、例えば30年先、40年先のJ-POPシーンにKing Gnuが居続けていたら。僕はそんな未来が楽しみで仕方がない。この数年でポップシンガー達が耕してきた新しいポップスの土壌でKing Gnuという花が咲いた。「CEREMONY」を聴き終わった後、僕はそんな気持ちになった。この花がどれだけカ強く咲き続けるのだろう。新時代、2020年代のJ-POP、そして令和のJ-POPに期待が止まらない。