【シングルレビュー】サザン流・情けねぇ男ソングの集大成「愛はスローにちょっとずつ」
8月12日、サザンオールスターズの新曲「愛はスローにちょっとずつ」が配信リリースされました。皆様お聞きになりましたでしょうか?
今年の3月から開催されていたツアー「キミは見てくれが〜」でも音源化に先駆けて披露されていた「愛はスローにちょっとずつ」。僕はこの曲こそ、サザンオールスターズ流、或いは桑田佳祐流・情けねぇ男ソングの集大成だと断言します。
今回は歌詞を追いながら、その集大成たる所以を紐解きたいと思います。
とりとめのない夢
ひとり寝のララバイ
この腕を枕に
眠る君は もういない
「ひとり寝」「眠る君はもういない」と、出だしからこの曲の主人公の男=「俺」が「独り身」であることが示唆される。
面影(おもかげ)しのぶように
窓際に咲いた
純恋(すみれ)の花びらが
風にそよそよと揺れる
「面影を偲ぶように」「純恋の花びら」。「俺」がずっと独り身という訳ではなく、「君」との恋に破れて今はひとりであること、そして「君」の面影を追い続けていることが分かる。
フラれた後は
寂しがり屋がひとり
夜毎 酒場で
酔って Dancing lonely
ここで「俺」は「君」に振られたことが示される。
もう愛なんて要らないさ
ひとりで生きるんだ
Oh,yeah 君だけが
夢に訪れる
「俺」は強がるかのように「もう愛なんて自分には必要ない」「ひとりで生きていく」と誓うものの、「俺」の意識の中に「君」は存在し続けていて、「愛」を求めてしまっていることが分かる。素直になれない「俺」はカッコ悪いしダサいけど、同時にこういう経験をした男性は(もちろん女性にだって)少なくないだろう。
いつまでも そばにいて
微笑みを もう一度
酔いどれ うらぶれた
こんな俺を 抱きしめて
ハッキリと示唆されることはないが、ここでは酔いツブれた「俺」が夢の中で「君」ともう一度語り合っていると推察できる。
揺れる木漏れ日
海へと続く道を
裸足で駆けた
夏はKiss me darling
「君」との夏の思い出を回想する「俺」。
愛はスローにちょっとずつ
黄昏(セピア) に染まるんだ
Oh,yeah 忘られぬ
鳶色(とびいろ)の瞳
タイトルでもある「愛はスローにちょっとずつ」は、「愛をゆっくり育む」という意味ではなく『「君」と「俺」の間に生まれた愛が少しずつ過去のモノに、色褪せていく』という意味での「愛はスローにちょっとずつ(セピアに染まる)」。
そして幾ら「セピアに染ま」り、色褪せようとも、彼女のこと、それも瞳の色という細かいディテールまで「俺」は忘れられないまま。
もう愛なんていらないさ
ぬくもり消せないんだ
Oh,yeah 溢れてくる
ひとすじの涙
ここでの「愛なんていらない」は、1番の強がりではなく、「もう(「君」以外からの)愛なんていらないさ」だろう。今もなお「君」の温度を自分の中から消すことが出来ない「俺」は、自身のふがいなさと「君」への想いで涙する。
No, I don’t cry もう泣かないさ
夜明けが待っている
Oh,yeah 君だけが
希望の光
さよならも言えず
ここまでずっと「君」への想いを断ち切れなかった「俺」だったが、そんな「俺」にも夜明けは嫌でも訪れてしまう。そんな「俺」にとって唯一の希望は「君」に別れの言葉を言えなかったこと、「さよなら」を言えなかった「俺」にとっては、まだ「君」と別離(わか)れていないのだから。
「葡萄」リリース時、そのタイトルをモジって収録楽曲を「ワイン」に喩えられたりもしていたが、こちらはワインではなくさながら熟成し続ける「ウイスキー」のような味わい。ツアーで温め続けたアレンジは、本来音楽を表現するには似つかわしくない筈の「芳醇」という形容詞が似合う、まろやかな聞き心地。
サザンのバラードと言えば「涙のキッス」や「真夏の果実」など、バラードの中でも緩急が効いたモノが多かったが、この曲はスタートからゴールまで、さもすれば単調とも言われかねないメロディラインになっている。僕もツアーで聞いた時は地味な曲だなと思ってしまった。しかしこうして音源としてリリースされ何度となく聞くと、一面的な盛り上がりで聞かせるのではなくじっくりと腰を据えて聞かせ"切って"しまうようなアレンジの曲を歌うことが出来たことはサザンオールスターズ40年の経験と勝負勘があったからこそと思ったし、このアレンジは間違いなく成功だ。この楽曲は2019年ならでは、というよりむしろこの先5年、10年、20年と聞き続けることで更なる深みを増すことだろう。
「愛はスローにちょっとずつ」の特筆すべきところは、スタートからゴールまでの道のりがとても気持ち良いというか、起承転結が良く出来ているところだ。「独り身であること」→「恋に破れたこと」→「フラれたこと」と主人公の状況が示唆され、主人公の独りよがりな強がりな想いが分かる1番。過去を回想し、「君」を忘れられない「俺」を感じる2番。そして最後は忘れられなくも前を向き歩もうとする「俺」の姿で曲が終わっていく。今回歌詞を改めてじっくりと読むことで、この美しさすら感じる構成に気が付くことができた。
いつだって桑田佳祐はこういう、端的に言えば「女々しい男」を描いてきた。それは桑田佳祐自身がそういう「女々しい男」だからに他ならない。時代は令和に入り、LGBTQの社会認知が広まり、多様性をおもんばかる社会に突入した。僕はそんな今の社会の流れが素晴らしいなと思うし、僕を含めたそういった言説にいままで生きづらさを感じていた人がひとりでも減れば良いと月並みながら僕は考えている。
だが一方、そんな中で「女々しい男」みたいな言説は、現代ではさもすれば差別的な表現になってしまう可能性も秘めているのかもしれない。しかし桑田佳祐がこれまで歌い続けてきた「情けねぇ男ソング」は、単に「情けねぇ、女々しい男」を歌いたい、揶揄したいのではなく、「情けない男」という器を借りて、愛の嗜好や性別に関わらず誰しもが抱える普遍的な愛を、そしてそれを失ったときに抱く「切なさ」を超えた感情を歌に乗せるべくして生まれ、歌われているのだ。そしてこの「愛はスローにちょっとずつ」は紛れもなく、サザン・桑田佳祐が40年歌い続けた「情けねぇ男の普遍的なラブソング」の集大成となった1曲だ。
愛や恋に破れた時、人は哀しくなって思わず衝動的に愛も情も捨ててしまいたくなるモノだけど、人が生きていく上で愛や恋や情からは逃れられないモノだし、そうであってほしいと僕は願っている。僕はこの人生を終えるその瞬間まで、愛をスローにちょっとずつ温めながら生きていきたい。