【CDレビュー】星野源「POP VIRUS」感想 ~ポップスの無限の可能性を考える。

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今さらシリーズ。今回は星野源「POP VIRUS」についてです。

 星野源は前作「YELLOW DANCER」では自身の提唱する「イエローミュージック」を突き詰めた。それは日本人ならではの情緒をブラックミュージックの手法を使ってポップスに完全に昇華してしまうという、音楽史に残り続けるであろう作品を作り上げると共に、それまではフォークや王道ポップスに留まっていた彼の独自の作風がガッチリと固まった作品でもあった。それから1年後「恋」をリリースした彼は、最新型の王道ポップスの形を提示すると共に、国民的ミュージシャンの仲間入りを果たした。

となると当然次のアルバムへの期待値は高まる。その後も「Family Song」「ドラえもん」、そして朝ドラのオープニングで1番のみ公開されていた「アイデア」とポップスの真骨頂のような作品をリリースし続けた星野源。否応なくアルバムへの期待は高まるのだが、あくまでもその期待は「恋」のような「王道ポップアルバム」への期待だった。

さて、ここまで「ポップ」「ポップス」と書いてきたが、ポップとはそもそもなんだろう。僕の中の「ポップ」の定義は「大衆ウケする」「キャッチーな」「わかりやすい」音楽である。昨年のあいみょんマリーゴールド」なんかはまさにその好例みたいな曲だ。90年代「J-POP」というジャンルが日本中でこれでもかと鳴らされていた時代を思い出してしまうようなアレンジは僕が自分の中で勝手に定義している「ポップス」そのものだった。

とはいえ、僕はあいみょんがポップだけのミュージシャンではないと思っているし、そう思っていることは既に記事として文章にしているのでぜひそちらも読んでほしい。

fujimon-sas.hatenadiary.jp

星野源の話に戻る。「POP VIRUS」のリリースに先駆けて配信リリースされた「アイデア」を聞いた僕は衝撃を受ける。朝ドラのOPで公開されていた1番は、朝ドラに相応しい老若男女誰もが心地よく鳴るようなポップサウンドが展開していて、期待する半面、同時に一見するとそのあまりにも凡庸なアレンジに辟易とした部分も確かにあって。(いや、よく聞いたらぜんっぜん凡庸でもなんでもないんだけど。鳴り方もスピード感も全然朝ドラ向きじゃない。)端的に言えば「恋」や「ドラえもん」にあった、ど真ん中ポップスにプラスちょっぴりのアクセント、例えば「恋」なら中華風のメロディ、「ドラえもん」なら音を削った不規則なブラックミュージックの手法。それが「アイデア」の1番には無かったことが、星野源が「王道ポップス」に振り切ってしまう予感を僕にはさせてしまって寂しさすら覚えていたのだが、「アイデア」全編を聞くと「王道ポップス」どころか、星野源は「邪道ポップス」つまり「邪道な王道」の道を進んでいることに気が付く。

「アイデア」は、2番に入った瞬間、それまで鳴っていた王道ポップサウンドが鳴りやみ、STUTSが演奏するMPCというサンプラーのみが鳴りだす。打ち込みの、それも例えばPerfumeみたいな音数の多い打ち込みポップじゃなくて、音数の少ないビート感が強烈なサウンドで展開していったと思えば、途中にアコギ弾き語りを挟みつつ、最後はここまで鳴っていたすべての音で大円団を迎える。「分かりやすい」か「分かりにくい」かで言えば、紛れもなく「分かりにくい」構造だろう。だが同時に、まるで組曲のようなその展開に誰しもが衝撃を受けた。事実、配信リリース当日のTwitterのタイムラインは「アイデア」のダウンロード報告で溢れかえっていた。朝ドラのOPを利用して半年かけて曲の1番のみを世間に浸透させた頃に、その後の好き勝手してる展開を改めて世間に提示する。そのプロモーション方法込みで僕たちは星野源にやられてしまっていたのだ。

歌詞もまた、2番からはポップスらしからぬ言葉が並ぶ。

独りで泣く声も
喉の下の叫び声も
すべては笑われる景色
生きてただ生きていて
踏まれ潰れた花のように
にこやかに 中指を

同時にこの曲展開は星野源の「誰かがやってきたような王道ポップスじゃない、自分だけのポップを突き詰める」という覚悟でもあった。「恋」以降、僕を含めた世間からの、ある種過剰過ぎる「王道ポップス」への期待、或いはこの国の音楽シーンにおける「ポップ」「ポップス」の定義を星野源はこの曲によって断ち切ったのだ。10年代後半を代表するポップアイコンとなった彼がこれまでにない先鋭的なサウンド(=彼の新しい“アイデア”)でポップソングを作ることで、この国における「ポップ」「ポップス」の定義そのものを変えてしまおうとしていた。

そして遂に18年12月19日にリリースされた「POP VIRUS」。表題曲として1曲目に収録された「Pop Virus」は、「アイデア」の2番のアレンジを更にアップデートしたようなMPCサウンドで全編展開していく。

MPCによるビート感のあるヒップホップの基盤となる音に、ストリングスが乗っかるサウンドメイクは、思わず踊りたくなる「イエローミュージック」としての踊れる要素、彼が上り詰めたポップアイコンとしての王道さ、そしてMPCという彼の新たな武器を渾然一体とすることで出来上がったと言える。これまでにない、つまりベタでもなきゃわかりやすくもないサウンド、なのにどうしようもなく踊れるしポップ然ともしている。

Dead Leaf

Dead Leaf

  • provided courtesy of iTunes

山下達郎がコーラスで参加したことで話題になった「Dead Leaf」も、音数は少なく、メロディを奏でるというよりはリズムとコーラスを含む歌だけで進んでいくような楽曲で、そういう意味ではとても分かりにくい1曲になっている。しかし同時にラストサビで転調したり、星野源本人が歌う歌メロはどこまでもポップだ。全くポップ足りえない要素とポップスの極みのような要素が同居する事で、今までにない作品、なのにどこか懐かしさもある。本当なら有り得ない作品に「POP VIRUS」はなっている。

サピエンス

サピエンス

不穏なギター、紛れ込んでいるノイズのような音、音が鳴り出し、鳴り止むことを繰り返す展開。Aメロだけ聞けば「実験的な音楽」と評されそうな「サピエンス」。だがサビになれば途端に突き抜けるようなポップなメロとサウンドに変化してしまう。これもまた「邪道な王道」であり、「分かりにくいのに分かりやすい」曲になってしまっている。

音楽ライターの三宅正一が「POP VIRUS」リリース前にこんなことをツイートしていた。推察の域を出ないが、恐らく彼が言う「文化救出」とは「王道ポップス」を指しているのだろう。思えば2010年代は王道ポップスの暗黒期、と言ってもおかしくない位にはポップスに元気が無かった。アイドルの全盛=アイドルポップスの流行と、ロックフェスのレジャー化による人気の上昇により、ロックバンドの人気が加速、いわゆる「J-POP」を主戦場とする「ポップシンガー」と呼ばれる人達の人気は正直陰っていたと言わざるを得ない。だが、10年代も終わりに差し掛かった2018年はポップシンガー達の人気が爆発した1年だった。あいみょん、米津玄師、そして星野源。次世代のJ-POPを担うのは彼らであり、その狼煙となるのがこの「POP VIRUS」である。

新しいモノを作り出すことが「創造」である。ポップとは「ベタ」「わかりやすさ」だとすると「創造」とは相反する意味合いになるだろうが、国民的と呼ばれる歌手、或いは作り手、なんなら会社だって良い。どんな物だって「新しいモノを作り続ける」事が人気を維持する、大衆に支持されることへの近道だ。そして星野源は「POP VIRUS」で「文化創造」という「革新」をした。だからこそ彼は大衆に支持されたのだ。

Present

Present

  • provided courtesy of iTunes

「Present」のイントロは昨年リリースの宇多田ヒカル「初恋」に収録された「誓い」を彷彿とさせるし、間奏のホーンは90年代のサザンオールスターズを思い浮かべてしまう。そういえば彼らも、ポップスの名手でありながらも、タダのポップスではなく様々な音楽ジャンルを自らに取り込み、混ぜこみ、濾す事で彼ら独自のポップスに昇華し、それを日本のスタンダードにしてしまったポップスターだった。彼らと同じように、星野源はこの作品で独自に「ポップス」を定義したし、これがスタンダードになる日もきっと近い。

僕の「ポップス」観はこの作品によって一新されてしまった。「POP VIRUS」を聴いた上で僕が思う「ポップスの定義」とは、「ベタ」でも「わかりやすさ」でも無い。「無限の可能性を持つ音楽ジャンル」。それこそがポップスだ。