最早この国で生身の人間による芸能は流行らないと悟った

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小室哲哉さんが引退を発表した。

 最早彼がどういう実績を持っているかとか、彼の史実だとかを紹介する必要も無いし、今回の騒動に関してもわざわざこんなところで解説する前に、ナタリーの謝罪会見書き起こしなんかの方がよほど情報が詰まっているのでそちらを読んでほしい。

この5~10年あたりの芸能界は、スキャンダルによって活動を止める人が多かったイメージだ。わかりやすいところだとベッキーゲスの極み乙女。なんかはその典型だろうか。

「文春砲」と呼ばれる、文藝春秋が発行する「週刊文春」に掲載される芸能人を中心としたスキャンダル記事は、掲載されるや否や各テレビ局のワイドショーで扱われ、それを見た民衆がSNSを使ってスキャンダルを起こした当人を叩きのめす「起爆剤」としての側面が強い。「文春砲」が撃たれた瞬間、少しでも対応を間違えれば、あるいは撃たれた段階で既にそのタレント・ミュージシャンはその後の活動を制限されてしまう。

2年前の「ゲスベッキー騒動」は、まさしく週刊文春に国民・メディアが大いに乗っかった結果であり、「文春砲」自体は春先にたった2発撃ち込まれただけ(厳密に言えば川谷絵音は秋に別件で炎上して、活動自粛になった訳だけど)なのに、今でもベッキー川谷絵音ゲスの極み乙女。の面々は「あの騒動」をいじられているし、中には今でも執拗にアンチ活動のようなことを行っている人間もいるだろう。結果、「文春砲」や「ゲス不倫」と言った言葉たちが「流行語大賞」にまでノミネートされた。「メディアが勝手に騒ぎ立てていただけだ」なんて保身の言葉が聞こえてきそうだが、少なくとも僕は当時、正義感ぶったツラをしたSNSユーザーが散々ベッキー・川谷叩きを繰り返していたことをこの目で確実に見ている。

そして2年経った今、「文春砲」をキッカケに(厳密に言えばどうやら騒動の有無に関わらず元々決めていたことではあったようだが)小室哲哉が引退を発表した。

それによって「週刊文春」に対する批判が今活発になっているらしい。

 

これが「世間」や「民衆」の異常性だ。

 

「文春」を図に乗らせたのは紛れもない「民意」だ。本来なら当事者以外は全く関係の無いはずの「不倫」を自分が勝手に作り上げた物差しで測り、曖昧で抽象的な「正義」という名の元に「文春砲」にここぞとばかりに乗っかったのは紛れもない「世間」であり「民衆」だ。

 

小室哲哉を引退に追いやったのは紛れもない「世間」だ

 

「文藝春秋」は出版社だ。売れるもの・ニーズのあるものを販売するのは当然のことだ。出版業界が下火な今、より売れるもの・よりニーズのあるものを販売しようとするのは会社として当たり前の行為だ。

無論、「芸能人のプライベートを暴く」行為は正当化されるべきではないし、許されないことだと僕自身思っている。何故芸能人ばかりがプライベートを詮索されなければならないのか。

それは「大衆が」望んでいるからだ。「誰かの不倫騒動」が表立って公開される度に、ネットを使ってココぞとばかりにボコボコして、芸能人のプライベートを詮索する記事をクリップしてきた実績が「大衆」には存在するのだ。

 

散々「文春砲」に乗っかり続けてきた「世間様」が今頃になって「文春許せない」なんて、いくら何でも都合が良すぎると思いませんか?

 

このままだと、生身の人間が行う「芸能活動」はどんどん減っていくだろう。自分のプライベートを丸裸にされて、誰かの勝手な物差しで善悪を測られて、「悪」とみなされた途端に「私刑」が執行される業界。それが「今の芸能界」である。こんな世界、誰が入りたいんだ。少なくとも僕はゴメンだ。例え僕が綾野剛のルックスを持ち、星野源のポップスセンスを持って、田村淳のトークセンスがあったとしても、タレントにはならないだろう。だってぶち叩かれるから。

 

「世間」が変わるなら今だよ。このままだと「大衆娯楽」としての「芸能」は消滅するよ。誰かのせいにする前に、自分の行い省みようよ。SELF CONTROLしようぜオイ。

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