「人間開花」に見たRADWIMPSの「人間という花」

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僕がRADWIMPSというバンドを知ったのは高校の時だった。

RADWIMPS自体は08年には既に「オーダーメイド」でオリコン1位を獲得していた。だが、08年当時中学生だった僕は存在感こそ知っていたものの当時はサザンオールスターズポルノグラフィティPerfumemihimaru GTといったいわゆる「J-POP」ど真ん中な曲が好きでよく聞いていた為にRADWIMPSのようなロックバンドには全く興味がなかった。高校に入ると、学年中がRADWIMPSを聞いていた。誇張なしに学年中が聞いていたのだ。僕とRADWIMPSが出会ったのは「単純に周りの人と話が合うように」という極めて音楽と関係の無い部分がキッカケだった。すぐに「マニフェスト」という曲が好きになった。「自分が総理大臣になったら」というテーマでこんなにキラキラとしたラブソングを書けるという所に驚いた。「有心論」に「ふたりごと」、「いいんですか?」、「me me she」、「トレモロ」。全部輝くようなポップロックだった。微塵も偽りを感じさせない、貫くような愛を歌っていた。そういうキラキラしたRADWIMPSに僕はどんどん惹かれた。1番好きだったのは「もしも」だった。うだつの上がらない、酒に酔った勢いで告白しちゃうような主人公に心から共感していた。当時片思いしていた自分にとってこの曲はまるで自分のためにあるのではとすら思っていた。同級生のバンドは高校生活最後の文化祭で「叫べ」を演奏していたし、それを見て僕はライブというものへの歓びを覚えた。RADWIMPSは僕の高校生活に欠かせない1ピースだった事は今振り返っても間違いの無い事実だ。もうあのバンドは活動を止めてしまったし、もう高校時代などとうに過ぎ去った過去だけど、今でもなお野田洋次郎の声を聞くとあの頃の自分なりに輝いてた青春を思い出す。

僕がRADWIMPSを知った頃、RAD自身は「DADA」〜「狭心症」、そして「絶体絶命」というタームに突入していた。「アルコトロニーの定理」以降のRADWIMPSはそれまでのポップロックではなく、哲学的で、残酷で、生命とは何なのか、生きる理由とは何なのかを主に歌っていた。その様は最早「修羅」と形容したくなる程に狂気的だった。「おしゃかしゃま」の神や人類の存在そのものの否定、「DADA」そして「狭心症」の生への否定、そして「五月の蝿」ではあれだけ愛していた筈の「君」すらも「許さない」と断罪し、「死体になった君を見たい」とまで歌い上げ、「いえない」では出だしから「今君が死んでしまっても構わないと思っている」と口ずさんだ。彼らは紛れもない修羅そのものだった。何故彼らは修羅と化し、何もかもを否定し続けたのか。そこには紛れもない愛があったからだ。否定をするという愛情表現。狂気と愛は表裏一体だった。この禄でもない世界を否定して、ぶっ壊したくて、でもそこにしがみつくしかない僕達人間はどうしようもなく「世界を愛して」いる。RADWIMPSは「世界への愛」を強烈なヘイトを以て体現していた。
15年末、RADWIMPSからドラマー山口智史の持病の悪化による無期限活動休止が発表された。バンドメンバーが抜ける、という最大の危機を迎えながらも彼らはサポートドラマーと共に対バンツアーを予定通り開催。クリープハイプゲスの極み乙女。ONE OK ROCKといった同じロックという土俵で戦う好敵手や、スピッツMr.Childrenという大先輩すらをも巻き込んだこのツアーは、RADWIMPSファンじゃなくても大注目のツアーだった。無事にツアーは完走、ドラマーの活動休止という大きなピンチを意地で乗り越えた。そして2016年。映画「君の名は。」の劇中音楽を担当。主題歌の1曲を担った「前前前世」は2016年の音楽シーンにおいてもトップクラスのヒットを叩き出した。そしてRADWIMPSはアルバム「人間開花」をリリースした。
上記した通り、15年末以降の活動はそれまでのRADWIMPSとは一転して、外に向いた活動が目立った。他バンド、それも他業種に近いようなバンドすらも巻き込んでの対バンツアー、そして映画の劇中音楽を担当。ここまで解放的な活動はそれまでのRADWIMPSからは考えられないことだった。その解放感はアルバム「人間開花」の曲からも感じ取れる。このアルバムは「アルコトロニーの定理」から「×と〇と罪と」までの3作にあったある種の閉塞感から見事に脱却し、突き抜けるような「光」を感じさせる作風だ。「Lights go out」も「光」も「前前前世」も「トアルハルノヒ」も「ヒトボシ」も「スパークル」も。真っ直ぐ過ぎる程に輝いている。黯然とした感覚はまるで無い。生きる喜びや希望に満ち満ちている。それも只の希望ではなく、絶望を、そして少数派である自らを理解した上で(「棒人間」なんかはまさにそういう類の歌だろう)、それでもなお世界に満ち満ちている希望を全身全霊を賭けて歌っているのだ。ファーストアルバムから4枚目までの恋愛の熱量から来るポジティヴとはまた違う、「生きることの温かみ」のようなポジティヴさだ。バンドサウンド全開で8ビートが心地よい「光」もあれば、ピアノ主体のメロディアスな「週刊少年ジャンプ」があり、そうかと思えば打ち込みとバンドサウンドが禍々しく組み合わさった「AADAAKOODAA」がある。「アルコトロニー~」以降に培った哲学的なサウンドも、今作ではポジティヴな感情を持って鳴らされる。なんて美しいのだろう。

暗がりがある所には必ず光があるように、RADWIMPSもまた暗がりを乗り越えて光の差す丘に再び登り詰めたのだ。気付けば修羅は1人の人間という花を咲かせた。この花をめいっぱい僕達は愛でたい。