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【CDレビュー】「生」と「死」という同一 ~宇多田ヒカルが「Fantôme」に秘めたもの~

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2010年に宇多田は歌手活動を休止し、「人間活動」に入った。齢15歳から音楽シーンの頂点に君臨し続けてきた彼女が人間らしい生活を求めるのは至極まっとうなことだと思った。2013年、彼女の母親である藤圭子が亡くなった。それは日本中に衝撃を与え、同時に宇多田の活動を心配する者も多くいたように思う。しかし彼女は翌年に初めての出産を経験する。母親の死と第一子の誕生。これらをほぼ同時に経験した彼女が音楽活動を再開するのは2016年のことだった。

「死」と「生」は相反するものだが同時にイコールでもある、なんて哲学者がよく言う話だけれど、たぶん本当にその通りなのだろう。生きとし生けるものは皆生まれた瞬間から「死」に怯えながら「生」き続ける。真逆のものであるはずの「生」と「死」なのに。そして他の生物と違い、人間には「愛する」という感情がある。人は誰かを愛した時、その人の「死」にもまた怯える。そして愛する人が「死」を迎えた時、人は大きな喪失感に襲われ、哀しみに暮れる。その「喪失感」や「哀しみ」を極限までポップミュージックに落とし込んだ作品こそがこの「Fantôme」なのだろう。

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も 

「道」宇多田ヒカル

 

揺れる若葉に手を伸ばし

あなたに思いを馳せる時

いつになったら悲しくなくなる

教えてほしい

真夏の通り雨宇多田ヒカル

宇多田ヒカルという歌手が曲を通してここまで率直に自分の感情を吐露したことがあっただろうか。彼女にとって如何に「母親」の存在が重要であったかを思い知らされる。

花束を君に送ろう

愛しい人 愛しい人

どんな言葉並べても

真実にはならないから

今日は送ろう 涙色の花束を君に

花束を君に宇多田ヒカル

 

あなたが守った街のどこかで今日も響く

健やかな産声を聞けたなら

きっと喜ぶでしょう

私たちの続きの足音

桜流し宇多田ヒカル

 「Fantôme」に秘められたものは「死」ではなく「生と死」である。「死」、それもチャチなフィクションではなく母親の死を経て宇多田光という一人の人間が感じ得たことすべてをドロップした究極のノンフィクションである「死」をポップミュージックとして描ききることによって果てしない「生」を表現している。母親の死を乗り越え、母親の遺したものを自分に込めて、強く生き続けるための彼女の狼煙のようであり、母親への深い感謝と慈しみが込められている。

どんなに怖くたって目を逸らさないよ

全ての終わりに愛があるなら

桜流し宇多田ヒカル 

 この一節を以てこの作品は終幕を迎える。「桜流し」は2012年に「エヴァンゲリヲン新劇場版:Q」のために書き下ろされたものであり、当時は映画の作中で碇シンジが体験した絶望と世界の終わりを迎える様が元になった歌詞だったが、「Fantôme」で歌われる「桜流し」はまるで母親の死と愛を歌っているように聞こえる。全ての終わりに愛があるから人は、そして私は強く生き続ける。そんなことをhikkiはこの作品に託したのかもしれない。