6月9日だからロックについてのおはなし

今日は6月9日。内田恭子とジョニーデップの誕生日だとか日本が初めてワールドカップで初勝利した日だとか。

 

日本では語呂合わせで「ロックの日」とするらしい。

 

「チマチマと音楽レビューなんぞをしてる当サイトにとってもこれに触れない訳にはいかねぇ!ぶちかましてやるぜ!!」なんて思ったりしたのだけども

 

よく考えたらロックってなんだよ…?

 

古今東西世界各国「ロック」という概念が生まれた瞬間から現在に至るまで、すべてのロックスター達がぶち当たってきた難問に、こんな小さな小さなブログも当たってしまったわけです。さぁ困った。勝手にぶち当たって勝手に困ってるだけだ。当たり屋かよ。

 

とりあえずwikipedia見てみよう。

 

音楽ジャンルとしてのロック、ないし、ロック・ミュージック、ロック音楽(ロックおんがく、英語: rock music)は、1950年代にアメリカ合衆国におけるロックンロールを起源とし、1960年代以降、特にイギリスやアメリカ合衆国で、幅広く多様な様式へと展開したポピュラー音楽のジャンルである

ピンとこない。

 ロックは、通常はエレクトリックベースやドラムスとともにロック・グループを構成している、エレクトリック・ギターを中心とした音楽である。典型的には、ロックは歌のある曲で、通常は4分の4拍子でヴァース‐コーラス形式をとるが、このジャンルは極端に多様化しているため、共通した音楽的特徴を定義づけることは困難である。

 まだピンとこない。

 ポップ・ミュージックのように、歌詞は恋愛に重きを置いた内容になることが多いが、これについても幅広く多様な他の主題が取り上げられることがあり、社会的ないし政治的な側面が強調されることもしばしばある。ロックの領域における白人男性ミュージシャンの優越は、ロック音楽が追究する主題を形作る重要な要素のひとつであると考えられている。ロックにおいて特に強調される要素は、ミュージシャンシップ(音楽家としての自意識ないし技量)、ライブ演奏や、ポップ・ミュージックより優った本物の音楽であることを主張するイデオロギーである。
ロック音楽は、文化な意志社会的運動が埋め込まれ、また、そうした運動の伝達手段となって、イギリスにおけるモッズやロッカーズ、1960年代のアメリカ合衆国においてサンフランシスコから広まったヒッピーのカウンターカルチャーのように、主要なサブカルチャーの形成に繋がっていくこともある。同様に、1970年代のパンク・カルチャーは、視覚的にも明確な様式であるゴスやエモなど多数を生み出した。フォークからプロテストソングの伝統を受け継いだロック音楽は、政治的な積極行動主義と結びつき、人種、性、薬物に対する社会的姿勢を変え、社会への従順に対する、若者たちの逆らいの表現と見られている。

 長いし何言ってるかわかんねぇ!

 

「ロックは反体制」「ロックは政治的な行動主義へと結びついている」と聞いてしまえば何となく納得しそうになる。だが、例えば今現在、日本の所謂「邦ロック」業界で「反体制」を地で行ってるバンドがどれだけいるだろうか。もっと言えば日本の音楽業界そのものも「反体制」からは程遠い印象だ。[Alexandros]もKANA-BOONONE OK ROCKRADWIMPSもみんな政治的な印象は全く受けない。それどころか浜崎あゆみ宇多田ヒカル西野カナもみんなみんな「反体制」なんかしちゃいない。別にそういうバンドがいないわけではない。後藤正文率いるASIAN KUNG-HU GENERATION、サンボマスターなんかもそっち側なイメージだ。「ずっとウソだった」が話題になった斉藤和義Ken Yokoyamaなんかもそうだろう。比較的初期から社会風刺ソングを歌い続けているサザンオールスターズ。上記したバンドやミュージシャンも僕が知らないだけで実はそういう曲を作っているかもしれない。

でもそれらが「メインストーム」なわけではない。つまり、彼らの活動の主軸は「反体制」「政治的な行動主義」では決してないし、また「反体制」「政治的な行動主義」がウケて音楽活動をしているわけではないのだ。[Alexandros]はオシャレなルックスとカッコいいサウンドがウケているし、KANA-BOONはダンスナブルな4つ打ちサウンドがウケてる。上記した他のバンドやミュージシャンもそうだ。「反体制」「社会風刺」そのもの"だけが"ウケている訳じゃなくて、あくまで付加価値としての「反体制」「社会風刺」だろう。その割合はミュージシャンによって様々だが。

でもそれじゃあ真の意味で「ロック」なミュージシャンなんているのだろうか。

そもそも論だが、「ロックとは反体制」という概念そのものがもう過去のものなのだろう。「反体制」とは社会的な、政治的ならな体制への対抗、というような意味合いだが、その基盤そのものが過去のものというか。現代における「反体制」は寧ろ、「音楽業界という巨大体制に対してのカウンター」としての「反体制」、政治的ではなく、むしろ「生活圏の中に存在する巨大体制に対してのカウンター」という、要は「ミュージシャンが生活する中で非常に近い存在である巨大体制」へ反対し、変革を起こそうとする姿勢に変わってきているのではないだろうか。前者なら最近話題になった岡崎体育の「MUSIC VIDEO」での「音楽PV業界に喧嘩を売りまくる」姿勢や打首獄門同好会の「普通のバンドなら歌詞にしないようなテーマを敢えて歌詞にする」姿勢、後者ならキュウソネコカミ、ヤバいTシャツ屋さんなどの「半径3m圏内に存在するモノへ噛みつく」様があげられる気がする。

 



つまり、「対象が変化している」のだ。日本人の国民性だとどうしても政治的なメッセージは敬遠されがちだ。そうではなくて「もっと身近な巨大体制への反抗」、としての「反体制」が昨今では大いにウケているように感じる。

 

結局、「ロックってなんだよ」論の最終的な結論は出ず仕舞いだ。当然だ。簡単に結論出せたらこんなにみんな苦労しねぇんだっつうんだよ。ただ一つ思うことは、「日本人に合ったロック」観が2016年にしてやっと固まってきたのではないだろうか。新しい形の「ロック」が出来上がっていくことは、音楽のエクストリーム化が進む昨今において正しい姿だろう。いちロックファンとして今後も新しいロックの出現に期待したい。

 

6月9日、調べたらRock'in on Japanの代表取締役である渋谷陽一の誕生日でもあるらしい。生まれた瞬間からロックだったのだ。本当の意味で1番ロックに近い存在は渋谷陽一なのかもしれない。